朝鮮半島の放送とラジオ
用語、内容について
本稿では、当時の表現に習って日本統治下の朝鮮半島を「朝鮮」、現地の言語、民族について「朝鮮語」、「朝鮮人」と表記する。
現在では差別的なニュアンスを含む表現もあるが、そのような意図がないことをあらかじめお断りしておく次第である。
なお、当時は朝鮮語に対して日本語のことを「国語」と呼んでいたが、本稿では「日本語」と表記する。
また、本稿は、当館の所蔵品と、主に放送局側からの公式資料から、現地での放送の概要をまとめたものである。
当時発生した放送に関連する事件、事象を網羅するものではない。詳しくは参考文献(3)(4)を参照されたい。
朝鮮における放送の始まり
二重放送開始までの道のり、朝鮮放送協会の設立
朝鮮半島で使われたラジオ
ナナオラ44型(JODK銘板付)
JODK 40型受信機
普及型2号受信機
聴取許可書類、聴取章 (加筆訂正)
放送網の整備、拡充
放送の特徴
朝鮮放送協会の最期
参考文献
日清、日露戦争の勝利を通じて朝鮮半島への影響力を強めていた日本は、1910(明治43)年、日韓併合に関する条約の公布により朝鮮をその統治下においた。同年8月29日に朝鮮総督府が置かれた。朝鮮の植民地としての統治は太平洋戦争が終結する1945(昭和20)年8月15日まで続いた。植民地朝鮮の歴史の概要については文献(5)を参照のこと。
1924(大正13)年11月、朝鮮総督府は京城(現在のソウル)府光化門通にあった逓信局構内に臨時スタジオを設け、50Wの送信機で朝鮮発のラジオ試験放送を開始した。また、同時期に逓信局で研究していた受信機を京城の繁華街にあった三越支店に設置して、大阪三越屋上から送信された実験放送を受信して聴かせる公開実験を実施し、成功したという(2)。アマチュアの受信機に対しては、逓信局が実験用私設無線電話として許可を与えた。
この実験放送は東京放送局の試験放送開始(1925年3月22日)より早い。日本で民間で行っていた公開実験のレベルだが、日本国内では政府機関が放送の実験を行うことはなかったため、公的な実験としては非常に早いといえる。
JODK京城中央放送局局舎(奥のアンテナと四角い建物) (絵葉書より)
日本国内で放送局設立の動きが出ると、朝鮮でも民間の放送局設置出願が相次ぎ、1926(大正15)年11月30日、社団法人京城放送局が設立許可された。京城放送局の設備は、逓信局が指導して英国マルコーニ製を導入することに決定したため、1kWの放送機が稼働するまで実験用に同社の200W放送機を一時的に使用した。このパワーアップによってサービスエリアが広がり、実験放送の段階で聴取者は1,500件ほどだった。
なお、1926(大正15)年8月には東京、大阪、名古屋の三放送局が合同し、全国組織としての社団法人日本放送協会が設立許可されている。朝鮮の放送は、日本の放送とほぼ同時に誕生したといえる。1927(昭和2)年2月16日、900kc、1kWで京城放送局の本放送が開始された。このとき決められたコールサインは東京のJOAK,大阪のJOBK、名古屋のJOCKに続く4番目のコールサイン”JODK”であった。本来、朝鮮のコールサインはJB**と決まっており、国内用のJO**ではないはずだったが、「内鮮一体」政策に反するという朝鮮総督府逓信局の強い主張により、国内4番目のコールを使用することになった。
放送開始当初の聴取料は東京放送局開局時と同じ月額2円であった。当時の朝鮮の人口約1800万人に対して在留日本人はわずか40万人であった。しかし、放送内容は日本語7割、朝鮮語3割であった。このため朝鮮人の聴取者は少なかった。受信料が高額だったこともあり、加入者は一部の日本人に限られ、放送開始時の聴取者数は1,300に過ぎなかった。また、小電力でエリアも狭く、聴取者は国内ほどには増えなかった。10月1日には聴取料を月額1円に値下げしたが、翌1928年になっても聴取者数は4,000程度にしかならず、経営状態は悪化していった。JODKはその後も困難な経営を続け、1929年末にはやっと聴取者数1万を突破した。しかし、朝鮮人への普及は進まず、厳しい経営が続いた。この事態を打開するために、1931(昭和6)年2月からエリア拡大のための10kWへの増力と、日本語、朝鮮語の放送を独立させるための二重放送(第二放送の開始)が計画された。厳しい環境が続く中で1932(昭和7)年4月、社団法人京城放送局は社団法人朝鮮放送協会へと改称された。
1933(昭和8)年4月26日、待望の10kW二重放送が開始された。これにより第二放送は朝鮮語放送となり、プログラムが充実したため、朝鮮人の聴取者数が激増した。累積された負債は日本放送協会が投資する形で解消され、経営は安定した。ここに10キロ二重放送開始記念絵葉書を示す。
JODK10キロ二重放送開始記念絵葉書、送信所 同、京城放送局前景、演奏室、指揮室
同、放送機と動力室、同封の説明文
朝鮮では、日本国内と同じ中波のみの放送が行われ、短波の受信は禁止されていた。また、電源の電圧、周波数も国内と同じであった。このため、日本国内と同じラジオセットが使われた。1938(昭和13)年度からラジオ普及のため、朝鮮放送協会により直売が開始された(2)。当館に、朝鮮で使われたことがわかる受信機があるので紹介する。
ナナオラ44型 高周波1段4球受信機 七欧無線電気商会 1934年
224-224-247B-112Bの配列でマグネチック・スピーカを駆動するナナオラの中級受信機である。砲弾型キャビネットの前面パネルには京城(現在のソウル)放送局のプレートが取り付けられている。このプレートが放送局が斡旋販売した受信機などの意味を示すものか、加入者章なのか、目的は不明である。
(所蔵No.11349)
JODK 40型 受信機 七欧無線電気商会 1936年
TUBES: 24B-24B-47B-12B
四極管検波、抵抗結合五極管増幅方式の高一付4球受信機。ナナオラ84型と基本的に同じものだが、JODK 40型となっている。オリジナルの84型とはグリルのデザインが異なる。当時は、地方局を中心に、JO**型と称する特別なラジオをメーカやラジオ商組合と協力して作り、普及のために安価で供給することがよく行われた。これもJODKが普及のために製作したものと思われる。
(個人蔵)
TOP
1940年代に入ると、朝鮮放送協会指定のラジオが供給されるようになった。現在、普及1号から3号までの3機種が確認され、いずれも松下製である。
1号は3球再生式、2号は次に紹介する並四、3号は高一付5球である。
普及型2号受信機 松下無線(株) 1941年
裏蓋の規格品ラベル
朝鮮放送協会が直接販売したと思われる受信機。松下の国民2号型とほぼ同じである。ほぼ同じセットが、満州電電の普及A11号受信機としても供給されている。裏蓋には公定価格表による規格品であることを示すラベルが貼ってある。これは、朝鮮にも国内と同じ制度が適用されたことによると思われる。パネルに朝鮮放送協会のマークが入っている。また、戦後、日本で修理した痕跡がある。
本機はスピーカが失われている。真空管も失われていたので手持ちのものを取り付けた。
(所蔵No.11761)
TOP
聴取者数が4万を突破した1935(昭和10)年の聴取許可証(個人蔵)を次に示す。この許可証は日本人向けに出されたものである。朝鮮人向けに朝鮮語の書類があったのかどうかは不明である。
(左)許可証表面、縦書きの国内用とは書式が異なる (右)裏面の注意事項
(左)封筒、窓付きで郵送できるようになっている (右)同封されていた法規集。内部は規則の抜粋
聴取許可の制度については、本土と同じ放送用私設無線電話規則が適用され、ほぼ本土のものと同じであった。確認されている聴取許可章は、1939年から使われた本土の逓信省のものと同じ体裁のものである。聴取加入が1942年度で27万程度であることから、この聴取章は1943年頃のものと思われる。表記が2行になるため、逓信省のものより縦の寸法が大きくなっている。
放送聴取許可章 (左:朝鮮総督府逓信局 1943年頃 右(参考):熊本逓信局) (個人蔵)
二重放送開始以降、朝鮮半島各地に放送局が建設された。この放送網建設に合わせて1936年、京城放送局は京城中央放送局に改称された。1938年に第一期整備計画は完成し、同時に聴取料が月学1円から75銭に引き下げられ、聴取者が増加した。二重放送によってサービスエリアが広がり、聴取者は増加したが、1939年3月現在の聴取者統計を見ると、最も普及率の高い京畿道で日本人74.1%に対して朝鮮人では5.1%、平均では日本人への普及率は49%、朝鮮人への普及率は1.2%に過ぎなかった。このため第二期整備計画が作られ、1942年までに地方局の新規開設と、既存の局の二重放送化が進められた。
次にその一覧表を示す(出典:ラジオ年鑑 昭和18年版、日本無線史第十二巻より)。
名称 | コールサイン | 周波数 | 設立 | 電力 | 放送機 | 備考 | 言語 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
京城中央第一 | JODK1 | 710kc | 1927.2 | 10kW | 東京電気無線GRP71A | 初期は900kc | 日本語 |
京城中央第二 | JODK2 | 970kc | 1933.4 | 50kW | 東京電気無線GRP123C(1937.4より) | 初期は10kW、610kc | 朝鮮語 |
釜山第一 | JBAK-1 | 650kc | 1935.9 | 250W | 東京電気無線GRP102D | 日本語 | |
釜山第二 | JBAK-2 | 1030kc | 250W | 朝鮮語 | |||
平壌第一 | JBBK1 | 820kc | 1936.11 | 500W | 東京電気無線GRP98B | 日本語 | |
平壌第二 | JBBK2 | 1090kc | 1936.11 | 500W | 朝鮮語 | ||
清津第一 | JBCK-1 | 850kc | 1937.6 | 10kW | 日本電気水晶制御式 | 日本語 | |
清津第二 | JBCK-2 | 1100kc | 1942.3 | 50W | 朝鮮語 | ||
威興第一 | JBDK-1 | 1050kc | 1938.10 | 250W | 東京電気無線GRP102D | 日本語 | |
威興第一 | JBDK-2 | 780kc | 1939.12 | 250W | 朝鮮語 | ||
裡里第一 | JBFK-1 | 570kc | 1938.10 | 500W | 東京電気無線GRP98B | 日本語 | |
裡里第二 | JBFK-2 | 1100kc | 1942.4 | 500W | 朝鮮語 | ||
大邸第一 | JBGK-1 | 800kc | 1941.4 | 500W | 日本語 | ||
大邸第二 | JBGK-2 | 1070kc | 1941.4 | 500W | 朝鮮語 | ||
光州第一 | JBHK-1 | 780kc | 1942.3 | 50W | 日本語 | ||
光州第二 | JBHK-2 | 1040kc | 1942.3 | 50W | 朝鮮語 | ||
元山第一 | JBJK-1 | 660kc | 1942 | 50W | |||
元山第二 | JBJK-2 | 900kc | 1942 | 50W | |||
海州第一 | JBKK-1 | 800kc | 1942 | 50W | |||
海州第二 | JBKK-2 | 1080kc | 1942 | 50W | |||
大田第一 | JBIK-1 | 650kc | 1942 | 50W | |||
大田第二 | JBIK-2 | 880kc | 1942 | 50W | |||
新義州 | JBLK | 50W | |||||
春川 | JBMK | 50W | |||||
木浦第一 | JBNK-1 | 30W | |||||
木浦第二 | JBNK-2 | 30W | |||||
馬山第一 | JBOK-1 | 50W | |||||
馬山第二 | JBOK-2 | 50W |
放送開始直後は独自にプログラム編成されていたが、1929年9月より日本放送協会から、内地中継の正式な許諾を与えられた。1935年以降中継網が整備され、日本放送協会との協力関係が深まるとともに、日本からの中継放送の割合が増え、1936年頃には日本放送協会の全国中継番組は基本的に全て放送するようになった。第一放送におけるローカル放送の割合は30%程度であった。中継は地理的条件から熊本、広島管内から行われた。また、朝鮮放送協会制作の番組を日本、または満州と中継する交換放送も行われた。日中戦争が激化してくると、大陸方面へのサービスエリアを利用しての中継放送、ロシア語、中国語での国際放送も実施された。
第二放送は朝鮮語放送として運用されてきたが、戦争の激化とともに内鮮一致、皇民化政策の強化が図られ、日本語講座の放送に始まり、日本語での放送が増えていった。
1945(昭和20)年8月15日正午、玉音放送は朝鮮でも放送された。その後の米軍進駐までの混乱した状況については諸説あって不明な点も多い。9月9日、朝鮮における降伏調印式の後、京城中央放送局は米軍政庁に接収された。この時点で「JODK」のコールサインは消滅した。その後、軍政下で放送が続けられたが、日本語放送の時間は極端に減らされ、1946年1月には日本語放送が終了した。職員はその後、一般の日本人住民とともに内地に引き上げ、日本統治下での放送は完全に消滅した。
1)日本放送協会編 『ラジオ年鑑』 昭和10,12,13,14,18年版 (日本放送出版協会 1935-43年)
2)電波監理委員会編 『日本無線史』 第十二巻 (電波監理委員会 1951年)
3)津川 泉 『JODK消えたコールサイン』 (白水社 1993年) 1,800円 Amazon.co.jpで購入する
4)篠 慧子著 『幻の放送局-JODK』 (鳥影社 2006年) 1,500円 Amazon.co.jpで購入する
5)『別冊1億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』 (毎日新聞社 1978年)