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松下電器のラジオ進出
1930-33
CONTENTS
共同事業の解消と一等当選
-新ナショナル受信機の登場-
1号機の型番の付与
1号機のマイナーチェンジ
ナショナル R-47C「標準型」 抵抗増幅式 1933年
コピー商品の横行
新ナショナル受信機意匠図案懸賞募集と低価格シャーシの発売 (加筆訂正)
新ナショナル受信機 R-36型 三球当選号 1933年 (NEW)
ラジオ産業のトップメーカー、松下電器は、ラジオが普及し始めた、交流式受信機の時代になってからラジオに進出した。鉱石ラジオからスタートした早川(シャープ)に比べると遅いスタートである。ここでは、松下のラジオ進出の経緯を紹介する。
松下電器のラジオ進出
-国道電機製作所の設立-
松下はラジオ放送が始まったばかりの1925(大正15)年に真空管を仕入れて販売し、利益を上げたことがあった。しかし、この時はその後のラジオ部品の急激な値下がりの予兆をつかんで商売を手控え、損害を受けずに済んだ(3)。
交流式受信機が普及してきた1929(昭和4)年頃から、松下もラジオ進出を考えるようになった。まずは樹脂製のソケットなどを製造していた橋本電機製作所(H.H.H.:スリーエッチ)を1929(昭和4)年に10万円で買収して日本電器を設立し、販売会社松和電器(株)を設立した(7)。松下の祖業が「練り物」と呼ばれる配線器具の樹脂部品であったことから、相手方の評価もしやすく、最初に手掛けるラジオ関連事業として適当だったのだろう。なお、ブランドは変更せず、H.H.H.を引き続き使用した。
次に本格的にラジオセットの製造販売への進出を考えた時、松下のラジオに対する重要な視点は故障を起こさない事であった。自社にラジオの技術がないことから、既存のラジオメーカとの合弁を考え、選ばれたのが北尾鹿治の二葉商会電気工作所であった。二葉は1919(大正8)年に設立され、1926(大正15)年からラジオ部品の生産を始めた、ラジオ業界の中でも古い会社である(6)。偶然にも二葉はラジオに「ナショナル」のブランドを使っていた。
二葉時代のナショナルラジオの銘板 (1927年頃) (所蔵No.11771)
二葉のナショナルラジオには同社の略称である「F.E.C.」のマークと"National Radio Works"の表記がある。二葉を松下が選んだのは、同じ関西の有力メーカで品質が良いことや、社長の北尾の人柄を信頼したという事もあっただろうが、すでに自社で電気器具に使用していた「ナショナル」ブランドの入手を考えたことは容易に想像できる。
松下は1930(昭和5)年8月に二葉商会電気工作所を買収し、資本金5万円で国道電機製作所(株)、略称KDS(以下国道電機)を設立して北尾鹿治は専務取締役に就任した(6)。こうしてラジオ事業に参入した松下であったが、その最初の「ナショナル受信機」はどのようなものだったのだろうか。
ここで、初期の「ナショナル受信機」の広告を見てみる。
ナショナル受信機の広告(左:二葉商会1930年10月、右:松下電器1931年5月、いずれも『無線と実験』より)
同じ雑誌に続けて出された二葉と松下のナショナル受信機の広告を示す。この二つを見る限り、どちらも同じ製品であるように見える。新会社を設立したといっても松下側にはラジオが分かる技術者がいない状態で、工場も二葉が新設したものである。いわば二葉側が工場と従業員を出し、松下は資金を出してブランドを手に入れたというところだろう。製造は旧二葉が行い、松下は総発売元となった。広告には「国道電機」の名前はない。ナショナルのマークは基本的なデザインは二葉時代と共通だが、すっきりした形にロゴが変更された。
この広告の松下電器の「器」の文字が間違っている。同じ雑誌に引き続き掲載されていることから、この広告は二葉(国道電機)側で出稿したものではないだろうか。松下特有の「電器」ではなく、つい使い慣れた「電機」を使ってしまったのだろうか。このような重大な間違いをやってしまうところを見ても、二葉と松下の距離感が感じられる。
国道電機時代のナショナル受信機は今まで現物の存在が確認されていなかったが、最近状態の良い4球式と純正スピーカが発見された。所有者より写真の提供および掲載許可を得られたので、以下に紹介したい。
ナショナル受信機 No.240 4球再生式 国道電機製作所(株)/松下電器製作所 1930年
TUBES: 227 226 112A KX112
ナショナル受信機のラインナップの中で中級の機種。典型的なエリミネーター受信機である。金属板を使ったシャーシで小型にまとめられている。広告には国道電機の名前はないが、実物のセットのダイヤルには、国道電機製作所の略称であるKDSのマークしかない。ナショナルのマークは内部の銘板のみに見られる。トランスの銘板には二葉時代のミューズダインのブランドが残り、社名も古いままである。二葉時代に作り込んだ部品の在庫を使用したものと思われる。
(管理番号K11005) 個人蔵
国道電機の表記があるトランスの銘板(個人蔵)
トランスも国道電機の表記に銘板が修正されたことが、この部品の銘板からわかる。ラジオセットには、このほかに普及型の3球式と上級の5球式があった。4球式と5球式の外観は基本的に同じで、木製キャビネットと金属キャビネットが用意されていた。
HHH No.100 "マスター" マーツライト製ホーン・スピーカ 日本電器/松下電器製作所 1930年
ナショナル受信機の純正スピーカとして用意されたホーン・スピーカ。松下の祖業である「練り物」の樹脂でできているが、このスピーカは当時真空管ソケットの有力メーカであったスリーエッチ(H.H.H.)ブランドの橋本電機製作所を1929年9月に買収して設立した日本電器の製品である。松下はベークライトに類似した熱硬化性樹脂を「マーツライト」と称した。日本電器はブランドを変更しなかったので、このスピーカにはナショナルのマークもKDSのマークもなく、H.H.H.のマークのみである。この製品の販売会社として松和電器(株)が設立された。ナショナルラジオより早く発売された、松下初のラジオ関連製品である。
(管理番号K10017) 個人蔵
ホーンスピーカはデザインが共通でサイズと色が異なる4種類が用意されていた。1930年はちょうどホーン・スピーカからコーン型スピーカへの切り替え時期でもあり、ナショナル受信機にも3種類のコーン型スピーカが用意されていた。
国道電機で生産されたナショナル受信機は、全国の松下電器の代理店に向けて発売された。旧二葉のラジオの品質は、業界の水準以上のものであったが、販売した結果は、代理店からの苦情と返品の殺到という結果だった。当時は輸送によるねじのゆるみなどが発生することも多かった。二葉の時代は知識のあるラジオ商に販売していたため、顧客に届ける前に動作確認し、簡単な初期不良は整備したうえで納品していたので問題がなかったが、簡単な構造の電気器具しか扱っていなかった松下の代理店は初期不良の点検や修理が出来ず、動かないものを全て返品してしまったのである。
この事態は松下に大きな損失をもたらした。これに対して、松下幸之助は、一般の電気店で扱える品質が高く、故障しないラジオをつくることを提案したが、北尾は従来の経験から、製品自体の改善は難しく、専門知識のあるラジオ商向けに販売するか、松下の販売店にラジオの技術を持たせることを主張した(3)。
両者の主張は結局相容れず、1931(昭和6)年3月に松下が国道電機の2万円の損失と在庫、設備を引き取り、松下の第七工場とした。北尾は再び独自に二葉商会電機工作所を立ち上げることになった。国道電機に在籍した元二葉の技術者は北尾に付いて会社を去って行った(3)。
フタバ5球受信機(1931年) 二商会電機工作所
二葉が松下と別れた直後の自社製品。銘板の体裁がどこかKDSの製品と似ている。
同じ銘板屋で作ったのかもしれない。 (所蔵No.11334)
結局、この「ナショナル受信機」は、共同事業というものの、すでに完成していた二葉の製品を二葉の工場で、マークと銘板を変えただけで販売したものである。ラジオの知識や技術がなかった松下は、新事業の製品にかける思いはあったが、実際には口を出せなかったのだろう。決裂の原因は、よく言われる品質問題とその解決方法に対する哲学の違いという点だけでなく、自分の思い通りにいかないことに不満があったのではないだろうか。
国道電機自身がわずか8ヶ月弱しか活動せず、ナショナル受信機は、その現存数の少なさから見ても、生産台数は少なかったようだが、松下の最初のラジオとして業界に話題は提供した。ラジオ業界ではナショナル受信機のキャビネットのコピーを「松下型」と称して販売するものが多く表れた。次に紹介するのはその実例の一つである。
松下型キャビネットを使ったエリミネーター受信機(所蔵No.11336)
このキャビネットには三共電機の「シンガー」のシャーシが搭載されている。松下のラジオ進出と同時期にラジオの大量生産に乗り出して経営破綻したシンガーのシャーシが失敗したナショナル受信機のコピー箱に入っているのも皮肉である。
「松下型」キャビネットの広告 M.R.C.『伊藤卸商報』(伊藤ラヂオ商会 1935年)
これは卸商報に掲載された「松下型」キャビネットである。オリジナルの発売から5年も経ち、キャビネットメーカの主要な製品はミゼットや電蓄のキャビネットになり、スピーカが別れた箱はカタログの中でこの形が残るだけである。それだけ人気のあるデザインだったのだろう。
独自製品の開発と一等当選
-新ナショナル受信機の登場-
松下幸之助はラジオ事業を継続するために国道電機で製造した製品や部品の販売を続けながら、新しいラジオの独自開発に取り組むことにした。開発の目標として東京中央放送局エリミネータ―受信機懸賞募集に応募することを掲げ、研究主任の中尾哲二郎に命じて3か月の努力で試作品を完成させ、6月に試作品を懸賞に応募した。懸賞に出品された松下のセットはスピーカ一体型の金属ケース入りのミゼット型だった(4)。
半年かけて製品化に取り組んだが、懸賞出品時のミゼット型ではなく、オーソドックスなスピーカを分けたデザインで発売された。全国の販売店で売り出すため、少し保守的なデザインを選んだのだろう。自社開発1号機は1931年末から1932年1月頃に市販を開始したが、11月には一等当選が発表されたため、松下は「一等当選」を打ち出して宣伝した。キャビネットは頑丈な厚い板で作られ、漆塗りが施された豪華なものだった。シャーシは生産性とサービス性を改善するためにユニット化され、何重にもシールドされた複雑なものになった。
国道電機時代の製品を「ナショナル受信機」と称したため、これと区別するため自社開発の新製品を「新ナショナル受信機」と呼んだ。
懸賞に出品したのと同じ回路のセットが3球式”清聴用”である。
ナショナル3球1号型 ”清聴用” (R-31型) 3球固定再生式 1932年
TUBES: UY-227 UX-226 KX-112B, Magnetic Speaker
三極管検波の固定再生式で低周波増幅は電圧増幅管226の1段増幅で、再生調整がないため操作部は電源スイッチと同調ツマミしかない。音量を調節するには同調をずらすしかないが、元々音量は小さく”清聴用”と名付けられた。放送協会のコンテストでは高く評価されたが、この機種は商品価値が低く、発売後半年ほどたった1932年後半には製造が中止された。
本機はオリジナルのパネルに復元されているが、低感度を補うために再生調整用豆コンが追加されていた。
(個人蔵、管理No.K11002)
音量、感度とも不十分な”清聴用”だけで市場をカバーできるはずもなく、松下の最初のラジオは、3球から5球まで4種類が用意された。
ナショナル4球1号(1701)型(左)と3球2号(1602)型 1932年 松下電器製作所 (柴山 勉コレクション)
同じ3球式だが、容量再生として出力管を112Aとした3球式”容量再生式” (1602型)が用意された。上位機種として4球式”音量調節付” がある。227
226 112A 112B の、後に並四と呼ばれることになる再生式の回路である。この方式のラジオの場合はボリュームコントロールはなく、再生調整が音量調節を兼ねるものが多いが、松下は再生調整の他に音量調節を付けている。これは、松下が取り扱いのしやすさを求めたことに加えて、当時の大音量を求める風潮に反して、適度な音量と高音質を訴求したことによる。
上の写真はこの2機種を並べたものだが、デザインは共通するが、サイズが異なっていることが分かる。試作段階で最も小規模な3球式から開発したため、上位機種とサイズをそろえることができなかったのだろう。5球式は本体が4球式より大きく、結局、本体のサイズ、デザインの細部は4機種とも異なり、スピーカも大小2種類存在する。
最上級機種として次に紹介する5球式”超遠距離用”が、少し遅れて1932年3月に発売された。
ナショナル5球1号型"超遠距離用"(R-51型) 高一付5球再生式受信機 (1932-33年 松下電器製作所)
シャーシの銘板と、東京電気の特許許諾証
TUBES: UY-224 UY-227 UX-226 UX-112A KX-112B, TRF, Magnetic Speaker
高周波1段付低周波2段 の5球で、マグネチック・スピーカを駆動する。5球式は最もサイズが大きい。シャーシには大型のカバーが付けられている。このカバーはトランスなどを純正以外の部品に交換すると、取り付けられなくなるので失われていることが多い。
本機のキャビネットは再塗装されている。また、電源スイッチと真空管、シールドケースが失われている。
(所蔵No.11750)
松下の自社製ラジオ1号機となるこのシリーズの製品は、故障が少なく、信頼性が高いラジオを目指して設計されたため、主要部品をすべてケースに収納する構造になっている。キャビネットも分厚い板で作られ、仕上げは漆塗りという手のかかったものであった。理想の高いセットは高価なものとなって(3球式で45円)商品としては失敗した。松下はこのシリーズ1本で1932年のラジオ業界に参入したが、すでに時代はミゼット型ラジオが主流となっていて、スピーカが分かれたスタイルの古さは隠せなかった。
後に松下は真空管以外の部品をほぼすべて内製するようになるが、この頃はトランスとコイルくらいしか作れなかった(7)。第七工場は国道電機の残留者と新規に雇用した社員と職工で運営したが、技術レベルが低いことから、スピーカなどの購入部品に対するクレームや返品が多く、部品メーカを困らせたという(6)。代理店が良くわからずに返品していたのと同じことが、部品を使いこなす技術が十分でない工場と部品メーカとの間でも起きていたのである。いくら丈夫な構造にしても、購入部品が多ければ品質は普通のラジオ並となる。故障がないラジオという理想は実現できず、故障の頻度はそれなりにあったという(7)。
松下は流行を追ってミゼット型ラジオを開発し、1932年春頃には市場に出した(R-33,42型)が、従来のシリーズを「ミゼット型」に対して「標準型」としてカタログに載せ続け、ペントードを採用した3球4号型(R-34)
と4球3号型(R-43) が追加された。これらの改良モデルは周波数特性を改善して音質を良くすることを目的としていたが、当時の聴取者の要望に合っていたとは言えなかった。当時のラジオは「良い音」ではなく「大声」が出ることが求められていたのである。
松下電器製作所のラジオ部門は1号機が売れなかったことで大きな赤字を抱え、1933年に経営危機を迎えることになったが、松下幸之助は最初のモデルが売れなくても値下げすることはなかったという(3)。この年に市場の要望に即した安価なマーツ・シャーシが発売されることで松下のラジオ事業が軌道に乗った。高品質の製品の原価に適正な利潤を乗せて販売するという原則を貫いたのであるが、このことはナショナルラジオのブランド価値を高めることになり、後に中級受信機R-48型や普及型受信機K-1型が発売されるときには、顧客に「割安な高級品」という印象を与えることに成功した。
当初は他のラジオメーカ同様、機種数が少ないために公表された型番がないが、3球式にペントードを使った機種が追加されて3種類となり、清聴用を3球1号、容量再生式を3球2号、ペントード抵抗増幅型を3球3号と称した。4球式は4球1号、5球式は5球1号である(2)。実際には他の電気器具と共通の4ケタの数字による品番が付与され、3球2号は1602、4球1号は1701である。
1932年春頃にはミゼット型ラジオも発売されるなど、機種数が増えたことでラジオを意味するR-**という型番を付与するようになった。”R"に続いて球数、開発順(また発売順)の数字を並べるルールのようである。3球1号型”清聴用”は、R-31、3球2号型”容量再生式”をR-32、ペントードを採用した3球4号型がR-34、4球1号型”音量調節付”がR-41、4球でペントードを採用した追加モデルである4球3号型は、R-43である。最上位の5球1号型”超遠距離用”にはR-51の型番が付与された。3球3号型(R-33)と4球2号型(R-42)
はミゼット型である。放送協会の懸賞に当選したオリジナル回路の、3球1号型”清聴用” (R-31)は、商品価値が低く、1932年夏頃にはカタログから落とされた。
最近(2020年7月)、R-41型を寄贈いただいたので紹介する。
4球1号型 R-41”音量調節付” 1932年
TUBES: 227 226 112A 112B, Magnetic Speaker
型番が付与された時代の4球1号型受信機。最初のモデルと全く同じものである。オリジナルの漆塗りの塗装が良く残っている。R-41にもR-51と同じようにシャーシ全体にカバーが付くが、取り外すには真空管などを取り外す必要があり、当時よく故障した低周波トランスが切れて、形が違うものに交換すると、カバーを取り付けられなくなる。一度取り外したら、二度と付ける気は起らなかっただろう。本機も低周波トランスが交換されていて、カバーは失われている。シールドケースの台座がカバーに付いているため、ケースを固定するために長いネジを組合わせて改造している。
(所蔵No.m11094) 愛知県、太田様寄贈
1933年に入って「標準型」は、ミゼット型と共通のシャーシを使った小型のモデルにマイナーチェンジされた。R-41は、マイナーチェンジされても全く同じ型番を引き継いだ。ペントードを使用したR-34とR-43は、特性改善のために抵抗結合に変更されて型番が変わりR-38、R-47になった。番号が飛んでいるのはミゼットの新型が間に入っているからである。最初に発売された一連のラジオの中では最上級の5球式のR-51型のみがそのままの形で販売されていた。
松下は1932年中はミゼット型も含めて自社のラジオを「新ナショナル受信機」と呼んでいるが、広告を見ると徐々に「新」の文字が小さくなり、1934年度からは「ナショナル受信機」となっている(5)。
ナショナル R-47C型 標準型 4球抵抗増幅式 1933年
TUBES: 224 224 247B 112B, Magnetic Speaker
松下はミゼット型の新型受信機R-48型を発売した。従来のスピーカを分けた初代の形式のラジオは、「標準型」R-47型としてR-48型と併売された。シャーシはR-48と共通で、シャーシの銘板はR-48となっている。後期のR-48とはレイアウトやシールドの構造が異なる。シールドケースの大きな穴は、キャビネットの背が低いためにシールドケースごと真空管を外すのに便利なように設けられたアイデアである。キャビネットは厚い板を使い、漆塗りとした仕上げは変わらないが、幅を狭くしている。少しでもコストダウンしようと努力したことは理解できるが、本体が小さくなったことでスピーカとのバランスが悪いデザインとなった。
ミゼット型のR-48型はヒットし、ロングセラーとなったが、もはや旧式でナショナル受信機の象徴としての意味しかなかった「標準型」は短期間でカタログから落とされた。
本機は、247Bが失われている。
(所蔵No.11A336)
新ナショナル受信機風のセット シャープシャーシ使用4球再生式 早川金属工業研究所(シャーシ) 1933年頃
TUBES: 227 226 226 KX-112B (CYMOTRON), Magnetic Speaker,
当時は話題になる商品が出ると、すぐにコピーが発売された。松下の1号機も本体、スピーカ共に模造品のキャビネットが現れた。この模造品は松下のように漆塗りではないが、かなり上質な仕上げである。スピーカーボックスの細工などは本物よりも凝っている部分もある。パネルを出す窓の部分が少し大きいくらいで、サイズはほぼオリジナルと同じである。シャーシは、シャープのミゼット受信機用のものが使われている。ツマミの位置が合わないため、板を敷いてかさ上げしていることがわかる。このため真空管の上の隙間がなくなってしまった。メンテナンスには困っただろう。
(所蔵No.m11096) 愛知県、太田様寄贈
ミゼットがラジオの形の主流となって、ラジオ本体の箱のコピーは作られなくなったが、スピーカだけは業務無線や船舶無線のモニタースピーカなどの需要があったためにオリジナルの生産が終わってからも長くコピーの箱が作られた。
「ナショナル型」キャビネットの広告 『伊藤卸商報』(伊藤ラヂオ商会 1935年)
この松下の1号機は現在では通称「当選号」と呼ばれることが多い。この言葉はPHP研究所などから多数出されている松下幸之助関連の書籍にも現れているので広く知られているが、発売当時の広告などには「一等当選」の文字はあるが、この1号機を「当選号」と称している資料は発見されていない。
本当に「当選号」と呼ばれたモデルは別に存在する。1933年に発売されたR-36, R-37, R-45, R-46型の一連のミゼット型ラジオである。これらの機種は、1932年6月に松下が開催したミゼット型ラジオキャビネットの意匠図案懸賞募集に当選したデザインを製品化したものである。これらの機種は広告などに「当選号」と記載されている。あまり知られていないこの機種に使われた「当選号」というわかりやすい名称が、後年になって1号機のほうの当選受信機と混同されて使われたのではないかと思われる。また、3球1号型”清聴用”のことを”清聴号”と呼ぶこともあるが、このような言葉も発売当時には存在していなかった。レアなモデルに対して付けられた「コレクター用語」であろう。
最初に他社と合弁で発売した国道電機のラジオを「ナショナル受信機」と呼んだことから、この一等当選で知られる松下独自のラジオ1号機のシリーズは「新ナショナル受信機」として宣伝された。古い時代の松下幸之助の著書や社史にはこの言葉が使われている。あえて呼ぶとすれば、この1号機のシリーズは「新ナショナル受信機」と呼ぶべきであろう。
なお、この「誤用」を行った古い文献としては、『日本無線史』第11巻、第3章第1節の2「松下電器産業株式会社」の記述に見られる。ラジオ研究の際に参照されることの多い権威のある機関が発行した文献だけに影響は大きかったと思われる。この文献は、貴重ではあるが、戦後の混乱期に作成されただけあって誤記も多い。引用には慎重でありたい。
「新ナショナル受信機」の広告(ラヂオの日本1932年5月号)
新ナショナル受信機意匠図案懸賞募集と低価格シャーシの発売
翌1932(昭和7)年には放送協会による懸賞募集は実施されなかった。懸賞募集で大きな広告効果を得た松下電器製作所は、自身でキャビネットのデザインコンテストを開催した。これは、いささか旧式のスピーカが本体と別れたデザインで登場した「新ナショナル受信機」に、新型として追加されたミゼット型ラジオのキャビネットのデザインを募集したものである。
この懸賞募集は、今までの放送局が開催した懸賞募集が、主にラジオのハードウェアの性能を評価するもので、外観については試作然としたようなものでも当選しているのに対し、中身は既存のシャーシを使う前提でデザインのコンテストを実施したところに新しさがある。ハードウェアがある程度の完成度になり、標準的な構成も固まってくると、次に商品として差別化するのはデザインと価格ということに松下は気が付いていたのだろう。1920年代末のアメリカで起きた、画一的なT型フォードに対し、デザインや色のバリエーションをそろえたシボレーで広くユーザを捉えたGMの競争を連想させる。
意匠図案募集を知らせる広告 松下電器製作所 1932年 (出典不明)
コンテストの一等には正面を全面布張りとした斬新なデザインが選ばれ、1933年の新製品「当選号」R-36, R-37(3球式), R-45, R-46(4球式)型として市販された。これが本当の「当選号」である。カタログによると応募総数は1446点であったという。模倣とみなされるデザインは一次選考で排除され、全面を模様入りの布張りとした斬新なデザインが当選した。カタログの文章は下記のように自信にあふれている。
「特にスクリーンを大きくとり、而も之に上品な意匠を凝らしたことは全くミゼット界に界に新機軸を作ったもので、恐らく今後のミゼット型は此の型に追随するに至ると信じます。」
今見ても斬新でユニークなデザインだが、カタログの自信に反して、このデザインがその後の主流となることはなかった。
「新ナショナル受信機当選号」カタログ 表紙 松下電器製作所
新ナショナル受信機 R-36型 三球当選号 1933年
意匠登録出願中のラベルがある本体背面
TUBES: 227 112A KX-112B (マツダ), Magnetic Speaker (National)
自社主催のデザインコンテストの受賞作を製品化したもの。鮮やかな全面布張りのパネルと、漆塗りの豪華で上品なキャビネットが特徴。シャーシは通常のデザインのナショナルミゼット型ラジオと同じものである。カタログの内部写真とはシャーシの細部が異なる後期型が使われている。それでも製造番号は800で、生産台数がわずかであったことを示している。
(所蔵No.11A371)
実際にはこの当選号は、デザインが斬新すぎたためか、それほど売り上げには寄与しなかったようである。だが、デザインとともにもう一つの大切な要素である価格を追求した安価な「マーツシャーシ」はヒット商品となり、松下のラジオ事業立て直しの契機となった。
当選号(左上)とマーツシャーシを紹介する広告(ラヂオの日本1933年2月号)
「新ナショナル受信機」の「新」の文字が少し小さくなっているのに注意
松下は、初代の製品が売れずにラジオ部門の経営危機に対応するため、新製品を開発した。1933年はじめには普及型の安価なシャーシを開発し、7円50銭という驚異的な低価格で発売した(この価格は3球式(R-1031)のものと思われる)。普及型シャーシには「ナショナル」ブランドを毀損することを恐れてサブブランドの「マーツ」が使われた。4球のR-1041(上広告の中央)は、縦長の大きな低周波トランスが特徴的だが、これは最初の新ナショナル受信機用に用意して余ったものを流用したといわれる(7)。
マーツシャーシと同時に上位機種としてナショナルシャーシR-1300(3球), R-1400(4球)も発売された。マーツとの違いとしてすぐわかるのは、トランスがチョーク一体型の大型のものが使われている点である。
松下は1933年4月に事業部制を採用し、ラジオ事業は第1事業部としたが、ラジオ事業の立て直しを図るため、1933年7月、第1事業部を本店から第7工場に移し、生産と営業を一貫して行える体制を構築した。この時発売された新製品は、市場の要求を取り入れ、工場と連携して低コストを実現していた(7)。
1933年秋には、シャーシをモデルチェンジし、新型のナショナルシャーシR-130(3球)、R-135(3球ペントード)、R-140(4球)(下写真)が発売された。この新型シャーシは、より小型化してコストダウンしたトランス(ただし認定の優良品である)と、樹脂をはさんで小型化したナショナルシールドバリコンを採用した。低周波トランスやターミナル、ソケットなども合理化された量産品が採用されている。
ナショナルシャシー R-140型 1933年
TUBES: 227 226 226 KX-112B,
新型のナショナルシャシー。色が黒から濃い茶色に変更された。シャーシ売りの場合、真空管なしで販売された。
写真右のトランスは、松下製ではあるがオリジナルではない。
(所蔵No.11A320)
マーツシャーシは、大量に残っていた初代のセット用の部品の不良在庫(つまり実質的にタダである)を使って安上がりに作り上げたというレベルのものだったように思われる。新型のナショナルシャーシは、旧型のエアバリコンなどを使うマーツシャーシより低コストになった可能性が高い。市場の評価を判断してブランドの棄損を恐れてサブブランドを使う必要がないことも分かったのだろう。マーツシャーシは、『松下電器月報』を見ると、事業部が工場に移った直後の8月に発行された第31号(商品一覧には「第七工場」とある)には掲載されているが、10月の第33号(「第一事業部」と表記されている)には、マーツ受信機は掲載されているが、シャーシはナショナル製品のみが残っている。本格的に大量生産された部品で設計されたナショナルシャーシが発売された段階で役目を終えて、1年もたたずにカタログから落ちることになった。
その後、松下はソニーがトランジスターラジオでラジオ業界に参入するまで絶対王者として君臨するのである。
(1)『ラヂオの日本』 昭和6年12月号、昭和7年5月号(広告) (日本ラヂオ協会 1931, 1932年)
(2)『松下電器月報』 No.33 昭和8年8月 (松下電器製作所 1933年)
(3)松下幸之助 『私の生き方 考え方』 (PHP文庫 1986年)
(4)『ラヂオの日本』 昭和7年1月号 (日本ラヂオ協会 1932年)
(5)『松下電器宣伝70年史』 (松下電器産業株式会社 1988年)
(6)岩間正雄編『ラジオ産業廿年史』(無線合同新聞社 1944年)
(7)平本 厚「松下のラジオ事業進出と事業部製の形成」『経営史学』第35巻第2号(経営史学会 2000年)