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新規格放送協会認定受信機(戦前編)
1934-43
CONTENTS
認定受信機とは
認定受信機の普及
認定の方式と番号
戦時下の認定制度
認定受信機一覧表(戦前編)
(別ファイル)
参考文献
高品質のラジオを普及させるために日本放送協会(以下放送協会と略す)では昭和3(1928)年から受信機器認定制度を設けていたが、鉱石、電池式受信機の時代に作られた認定規定が時代に合わなくなり、利用は低調だった。このため1934(昭和9)年、認定制度が大幅に改定され、制度が新たにスタートすることになった。
認定において普及価格帯であるという条件が付けられたため戦時中を除いてスーパー受信機のような高級機は対象にならなかった。セットだけでなく真空管、トランス、スピーカ、コンデンサなどの部品にも認定が与えられた。また、旧制度ではなかった認定番号が付与されるようになり、認定品の識別と管理が容易になった。
この規定の改訂以後、認定を受ける機器は着実に増加したが、強制的な制度ではなく、すべてのラジオが認定を受けたわけではない。認定品の大半は当時の一流メーカー製品で占められている。1936年の伊藤ラヂオ商会の商報に掲載されたミタカ電機の広告を見ると、認定品は掲載されている10機種中4機種、そのうち2機種は型落ちの旧製品だが、これでも同社は認定の取得に熱心な方である。認定を取るためにはきちんとした性能を出す必要があるためどうしても高価になり易いという問題点があった。一流メーカーになると認定品とそうでない製品に特に価格差がなく、品質の差もほとんどないようだが、一部の中小メーカーの中には認定品が「看板代わり」になっているようなものもあった。また、セットでの認定取得が困難なためトランスやスピーカーなどの部品に認定品を採用した「認定部品使用受信機」も数多く登場した。
放送協会は1935年に「日本放送協会認定ラヂオ普及会」を設立し、業界関係者を集めて認定品の普及を図った。認定が東京で行われたために関西のラジオ業界は特に認定制度に冷淡だったが、大阪支部の開設や売り出しの実施などで認定品を売り込んでいった(1)。東京支部長にはウェーヴの石川均、関西支部長にはシャープの早川徳次が就任した(4)。また、この普及会の中でラジオやラジオ部品の規格統一が検討され、ラジオ製造業組合でも検討が始まった(5)。これは後のラジオ用品委員会による規格統一につながる動きであった(2)(4)。
この動きに対してラジオ業界では今村電気商会を中心に東京市内の月賦販売業者を集めて「優良受信機普及協会」を設立した。これは規格統一や共同仕入れ、共同宣伝、価格統制をおこなおうとしたものである(3)。
新規格ができた1934(昭和9)年度の認定品販売台数は17,000台であったが、1935(昭和10)年度上半期ですでに3万台を超える販売台数(シャーシ含まず)となり、積極的な放送協会の宣伝の結果が出ている(6)。
放送協会の積極的な宣伝活動によって認定品の人気は上がったが、それでもラジオの販売全体の数パーセントでしかない。思惑に反して認定品は広く普及しなかった。大きな理由は価格の高さである。先に紹介したミタカ電機の広告の隣のページには卸値16.00円のアリア100号型と同じ回路構成のラジオでなんと7.60円というのが出ている。これでは認定品が売れるはずがない。そしてこのような安物受信機は故障の頻発や動作不良による再生妨害などの原因となっていた。
再生妨害という点でいえば、法規によってアンテナから高周波を再放射することは禁止されていた。ちょうど無妨害再生受信機が話題になっていた時代で、放送協会は認定の試験において再生妨害抑止を重視して規格を厳密に適用した。このため、再生妨害には目をつぶってめいっぱい再生をかける安物より認定品のほうが感度が低いということになり、電波が弱い地方では売れなかった。再生妨害を防ぎたいなら並四受信機などやめてしまえば良さそうなものだが、そうはいかなかったのが日本の現実であった。これも認定品が全国規模で売れなかった一つの理由である。
認定はラジオセット、および部品についてメーカーからサンプルの提出を受け、規定に基づいて電気試験所などで試験し、合格すれば認定番号が与えられ、規定のマークを表示することができるというものである。現在、電気製品に設けられているSマーク制度に似たものである。
認定番号は5桁の数字で表され、最初の2桁が種別、後の3桁が011から始まる通し番号となっている。
認定標章
標章のデザインは決まっていたが、色や貼付位置は当初明確に決まっていなかった。このため、側面に表示した場合などに認定受信機と認識されにくかったり、認定部品のみ使用した製品との区別がつきにくかったりといった問題が発生したので、1935年9月に受信機についてはキャビネットの正面に貼ることが定められ、受信機とシャーシ、スピーカに貼付する標章については上の写真のように金色の地に放送協会のマークを朱色、文字を黒色とすることとなった(7)。
認定番号一覧(ラジオセット関係のみ抜粋)
番号 | 種別 | 備考 |
---|---|---|
11*** | エリミネーター受信機(高声器自蔵) | |
12*** | エリミネーター受信機(高声器別) | |
13*** | 学校放送用拡声器 | 戦後制定 |
15*** | エリミネーター受信機シャーシ | |
16*** | 電池式(交直両用)受信機 |
認定品が普及しないことから、1938年、放送協会はより標準化を進めた放送局型受信機制度を開始した。この規格の中で、局型受信機の主要部品は認定品を用いることが指定された。放送局型1号、3号受信機の発売に伴い、放送協会はまずは放送局型受信機を推奨し、これで対応できない電界強度の低い地域向けには認定受信機を推奨するという方針を採った。
1938年4月1日以降、局型受信機に相当する中電界級および弱電界級の交流式受信機の認定申請は取り扱わないことになった。このため1938年中は中電界級の並四受信機の認定が見られるが、1939年以降は高一受信機以上に限られるようになった。
戦時下の統制経済の中で放送局型受信機と認定部品は重要度を増していった。また、戦時下、ラジオセットも価格統制、配給制の対象となった。高級品である高二やスーパー受信機も公用を中心に生産されていたが、公定価格の標準品として配給の対象となるものは放送協会認定品に限られたため、1938年頃から高一以下の普及型受信機に限定されていた認定対象に、高二ダイナミックや、スーパー受信機も加わるようになった。
これに対して前述のように低感度の受信機の認定を扱わなくなったためにラジオセットの認定は1939年以降非常に少なくなり、部品の認定が中心となった。ラジオセットの認定は1943年3月末まで行われた。その後は期限の延長などはあったが、戦後になって国民型受信機の認定が始まる1946年まで認定された機種はない。
認定受信機一覧表(戦前編)
(別ファイル)
(1) 「認定品の驚異的普及と関西メーカーの態度」 『東京ラヂオ公論』 第41号 (ラヂオ画報社 1935.7.25)
(2) 「認定普及会の副産物として着目すべき傾向台頭」 『東京ラヂオ公論』 第42号 (ラヂオ画報社 1935.8.15)
(3) 「近頃喜ぶべき傾向に在る販売組織の統制強化!!!」 『東京ラヂオ公論』 第40号 (ラヂオ画報社 1935.7.15)
(4) 「東西両都市に支部を設け益々本格的活動に入る認定品普及会の躍進目覚まし」 『東京ラヂオ公論』 第42号 (ラヂオ画報社 1935.8.15)
(5) 「部分品のゲージ統一に製造組合の乗出し」 『東京ラヂオ公論』 第42号 (ラヂオ画報社 1935.8.15)
(6)「認定品の販売数!! 本年度に十万台か」 『東京ラヂオ公論』 第44号 (ラヂオ画報社 1935.9.15)
(7) 「認定セットのマークは正面に貼付」 『東京ラヂオ公論』 第45号 (ラヂオ画報社 1935.9.25)