日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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ドイツ国民受信機

Deutshe Volks Empfanger


INDEX

国民受信機登場まで

ドイツ国民受信機VE-301
(Deutshe Volks Empfanger VE-301)


国民受信機の発展とラジオの統制

ドイツ小型受信機 D.K.E. 1938
(Deutsher kleinampfanger D.K.E. 1938)


国民受信機と日本

戦後の国民受信機

参考文献

本稿では、表示上の問題から、ドイツ語のウムラウトを省略して表記する。

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国民受信機登場まで

1933年1月30日、国家社会主義労働者党(略称ナチ)が、ドイツの政権を掌握した。この時代を「ドイツ第三帝国」と呼ぶ。自らの政治思想の普及に放送が役立つことを見抜いていた彼らは、信頼性が高く、安価な受信機を全家庭に最低1台普及させることを計画した。同年5月13日にはヨゼフ・ゲッペルスが宣伝省を司ることになる。第三帝国の放送部会は、この受信機を Volks Empfanger 「国民受信機」と命名した。ハインリッヒ・ヘルツ工科大学教授のライトホイザー博士を長とする委員会が設立され、この委員会を中心に開発が推進されることになった。そして、ラジオメーカ28社に対して国民受信機の設計プランの提出が要求された。このやり方は、同時代の「国民車」Volkswagenの仕様決定過程と共通する。

国民受信機は、国内の放送局が確実に受信できることが要求された。試作品は全国22ヶ所でテストされ、どの地点でもローカル局およびドイツ中央放送局(Deutshe Welle)の放送が昼間受信できることが確認された。回路は、三極管検波のストレート式と決定された。これは、山間部が少なく、多くの外国と隣接するドイツにおいて、自国の放送を確実に受信し、外国の放送を受信できないようにすることが重要だったからである。これにより、ドイツ国内では輸出用や特殊用途を除き、大衆向けにスーパー受信機が作られることはなくなった。

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ドイツ国民受信機VE-301

1933年8月18日、最初の国民受信機VE 301型が発表された。発売初日に10万台が売れたという。”VE”はVolksEmpfangerの頭文字、”301”は、政権樹立の日1月30日に由来する。


国民受信機には、このようなシンボルマークが作られた。
ナチの象徴である鷲の口から電波が広がっている図は、図らずもこの受信機の性格を物語っている。ベークライトの色は、この写真のように赤色の模様が混ざっている。この色調はスピーカのネットの色と合わせてドイツ的な色としてヒトラーが選定したものという(1)。

国民受信機は、まったく同じデザイン、回路のセットを統一された部品で、各メーカが製造するというものであった。製品の検査、監督は先述の委員会が発展した、製造会社WIRUFAの経済部門により厳重に行われたという。価格は76ライヒスマルク(当時の日本円換算で38円)に統一されていた。VE 301には、基本モデルといえる交流用のVE 301W、直流送電地域用のVE 301G、電池式のVE 301B、交直両用のVE 301GWなどがあった。

ここで、当館所蔵のVE 301を紹介する。

VE-301W(交流用) NORA: Heliowatt Werke Elektrizitäts AG, Berlin-Charlottenburg. Germany 1933年
  

 

 
TUBES: REN904 / A4110 - RES164 / REL416/D5 - RGN354 / RG354 (Telefunken/Valvo)
交流用のVE 301Wは、国民型受信機の基本的なモデルで、キャビネットはベークライト製である(ベークライトはアメリカの商標のため厳密には正確でない、正しくはフェノール樹脂である)。3極管による再生検波と5極管による増幅で、マグネチックスピーカを駆動する。受信周波数は中波550-1500kcと、長波150-375kcの2バンドである。長波があるのは、当時ケーニッヒステルハウゼン(191kc)の放送を受信するためである。アンテナのタップが細かく取り出されているのが特徴で、これにより、低感度ながら最適な分離特性を得られるようになっている。電源スイッチは背面にある。基本的に入れっぱなしにしておくことを前提にしているのだろう。

構造は堅牢だが、トランスやチョークコイルは板金の端をシャーシに差し込んでひねるだけで固定しているなど、簡略化を図っている。メーカによる差異は基本的になく、まったく同じデザイン、構造で生産された。

(所蔵No.11A166)
コラム:NORAについて:(4)
NORA Radioは、1930年代にはドイツで有数のラジオメーカであった。Heliowatt Werke Elektrizitäts AG は、積算電力計のメーカとしてDr. Hermann Aron (1845-1913) が創業したAron Elektrizitäts-Gesellschaft mbH, Berlin-Charlottenburg が起源である。1923年にラジオに参入したのはHermann Aron の息子である。その頃にはユダヤ人に対する差別、排斥の動きがみられたため、ブランドはユダヤ系とわかる"Aron"を逆にして"Nora"としたという。大メーカとしてユダヤ系でありながらナチの政策に沿って国民受信機を生産したのである。初期の段階ではナチもユダヤ人の経済力や生産力を利用する必要があり、ユダヤ系の企業家も協力したのである。しかし、ユダヤ人排斥は一層厳しくなり、1935年、Noraのラジオ事業はジーメンスに売却されることになった。社長のAron氏については、家族をアメリカに亡命させることはできたが本人は強制収容所に送られた。
VE-301G(直流用) Telefunken A.G. (1933-37年)
  

 
TUBES: REN 1821-REN 1823d (Telefunken)

交流用のVE 301Wは、ベークライトキャビネットが特徴だが、直流用のVE 301Gはデザインがよく似た木製キャビネットだった。3極管 による再生検波と5極管 による低周波増幅で、マグネチックスピーカを駆動する。直流用のため、整流管はなく、シャーシ左端の大型巻線抵抗器は、電圧切替用である(110/130/220Vをタップで切り替える)。その他は基本的にVE-301Wと同じである。この機種は、1937年に交直両用のVE301GW(ベークライトキャビネット、79ライヒスマルク)に変更された。

(所蔵No.11661)

ここに紹介していないが、電池式のVE301Bも木製キャビネットである。RE034-RE-034-RES174dの3球式だったが、1937年にKC1-KC1-KL1を使ったVE301BIIに変更された(デザインは変更なし)。

VE 301型は、1938年11月末までに50万台を超える台数が生産された。50万台目は、ヒトラーに贈呈されたという。

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国民受信機の発展とラジオの統制

1934年には、放送加入者が500万を突破した。ちなみにこの年の日本の加入者は200万を越えたところである。また、1935年3月22日には、ベルリン・オリンピックに合わせて世界初のテレビ放送が開始されている。1937年にはVE 301型はマイナーチェンジを受け、VE 301nが65ライヒスマルクで発売された。これにより旧型のVE 301型は59ライヒスマルクに値下げされた。1937年末には国民受信機全体で265万台が販売された。これだけでこの期間の日本のラジオ総生産台数の2倍程度にあたる。1938年に、VE 301型は、検波管を5極管としたVE 301Dyn に、フルモデルチェンジされた。そしてこの年、より普及を図るための簡素な受信機が追加された。これがDKE1938型である。

この頃には放送の統制が進み、放送に関係する者全て、すなわち、放送局関係者、ラジオメーカ、卸業者、ラジオ商、アンテナ工事人、ラジオ関係の定期刊行物発行者とそのスタッフ、放送に関係する芸術家、ジャーナリストまでが帝国放送部会の会員になることが強制された。1937年12月1日以降、国民受信機には、帝国放送部会認定章が付けられた部品で組立、認定章を付けて販売することが決められた。1938年に、ラジオの製造に関しては、ドイツ放送産業経済登録協会(WDRI)が創設された。先の認定章は、WDRIが交付する許可を得た。このため、WDRI認定章と呼ばれる。

ラジオのいっそうの普及のために、低所得者層への聴取料の免除や、電気代と一緒に代金を支払う分割払いが奨励された。この頃には、放送の政治宣伝色が濃くなり、娯楽番組が減少した。そして、1939年9月1日の第二次大戦勃発以降、非常時放送措置法により、外国放送の聴取が禁止された(ソ連の放送は1934年に聴取が禁止されていた)。外国放送の聴取、また、政治的公共放送の聴取に対する妨害は極めて厳しく取り締まられ、処罰された。最も厳しいものでは、ソ連の放送を聴き、工場内に広めていた者が死刑判決を受けたということである。日本でも外国の放送を聴くことは禁止されていたが、スパイ容疑で取り調べられることはあっても、それだけで懲役刑ということはほとんどなかった。

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ドイツ小型受信機(Deutsher kleinampfanger) DKE1938

1938年、ラジオの普及と、資材の節約を目的として、ローレンツ社により設計されたD.K.E. 1938型が発売された。価格は35ライヒスマルクと、VE 301型の半額近くに押さえられた。

 Deutsher kleinampfanger D.K.E. 1938 Allstrom Roland Brandt社製 (所蔵No.11511)

  

VE 301Wと同じ材質のベークライトキャビネットに収められたDKE1938型は、徹底的な資材節約が図られている。回路は、4極3極管VCL11による再生検波、増幅と、整流管VY2の2球式で、紙製フレームのマグネチック・スピーカを駆動する。シャーシはベークライト板1枚で、シャーシに垂直に付けられたバリコンを回す枠がダイヤルとなっている。長波、中波の切替はバリコンを回すことで自動的に行われる。トランスレスで、電源電圧はシャーシに垂直に立てられた巻線抵抗器のタップで切り替える。キャビネット内部右上にWDRI認定章が見られる。拡大した写真を右に示す。また、正面ダイヤル上には、認定章のデザインに近い、鷲と鉤十時を組み合わせた紋章が表示されている。この受信機は1938年末までに70万台が生産された。

この機種には電池式のD.K.E. 1938 Batterie が存在した。従来の国民受信機は上位機種として横行ダイヤルを採用したVE301 Dyn. W およびVE301 Dyn. WG が継続販売された(2)。

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国民受信機と日本

国民受信機VE 301Wは、発売直後に日本にもたらされた。「ラヂオの日本」1934年4月号に放送協会の安藤照雄氏による解説記事(1)が掲載されている。詳細な構造の解説と測定結果が示され、結論は次のように記されている。

個々の製造者で作るとすると100マーク(ママ)はかかるものを、この制度なるが故に76マークという廉価に公定できるのであると云われている。ここに考えさせられるものがあると思う。勿論、出来るだけ安価にした「国民受信機」であるから、決して高級ではなく、又分離性に特に留意したという以外に取立てて特徴と認むべき点がないと無いという事を調べてみて知った。VE 301から我々は技術を学ぼうとすると失望する。「国民受信機」の制度について我々は関心を持つべきではあるまいか。
(『ラヂオの日本』 1934年9月号p.15、原文は旧仮名遣い、縦書きのため、現代仮名遣い、常用漢字に改めた)

このように、セットの性能がたいしたものではないため、セットそのものより制度のほうに関心を抱いたようである。まったく同じセットを全メーカが製造してコストダウンするという方法は、放送局型受信機制度に、大きな影響を与えたと考えられる。しかし、VE 301の性能がたいしたことがないことに惑わされて、この性能が厳密な調査に基づいて決定されたものであったこと、コストダウンは、規格化による大量生産だけでなく、生産性改善のための巧妙な設計がされていることなどは見逃されたように思える。

放送局型受信機制度の開始に当たっては、ドイツでは28社のメーカーから設計を公募したのに対して、日本では大手5社のみに図ったことから業界から激しい反発を招いてしまった。また、受信機の設計は、無妨害再生にこだわるあまり、基本的な感度の確保が十分でなかった。このため、最初の放送局型受信機は失敗に終わった。

NHK放送博物館にD.K.E.1938型が保存されている。これもサンプルとして当時もたらされたものと思われる。この徹底的に金属を節約した受信機は、放送局型受信機の改良に大きな影響を与えたと考えられる。1940年には、トランスレス用真空管を開発した東芝から、D.K.E.1938の構造を模した東芝受信機41型が発売された。

東芝受信機41型 トランスレス4球再生式受信機 東京芝浦電気(株) 1940年 卸\28.00  

   

  

東芝が開発したトランスレス用真空管を使用した再生式受信機。12YV1-12ZP1-12XK1-B61の構成で、金属フレームのマグネチックを駆動する。半波整流管を使用しているためB電圧が低く、似た形式の放送局型122号受信機倍電圧整流、出力300mW)に対して、出力が100mWと小さい。ベークライト板2枚で構成されたシャーシは、真空管ソケットのフレームを兼ねている。ドイツ製のように複合管を使用していないことからサイズは大きいが、配置や構造はDKE1938に酷似している。ただ、スピーカが大きいためサイズは一回り大きい。

電球、真空管のトップメーカであった東芝は本格的なラジオセットの販売は行っていなかった。このセットは一般に市販されたが、東芝自身が製造したものではなく、七欧無線電気および山中電機がOEM供給したものである。本機は使用部品から山中製と思われる。商品というよりはトランスレス真空管のデモ用といったほうが良い。

本機のツマミは失われている。本来はD.K.E.1938と良く似たデザインのものが使われていた。
本機は、整流管と安定抵抗管が失われている。

掲載誌:伊藤商報1941.6

(所蔵No.11794/11713)

紙をプレスしたフレームのマグネチック・スピーカは日本でも実用化され、規格品として局型受信機だけでなく、日本のラジオに広く普及した。また、ベークライト板1枚でシャーシを作る構造は、有放3号型受信機に生かされている。

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戦後の国民受信機

戦後、日本では兵器産業の復活を抑えるために、航空機や自動車の生産は禁止されたが、ラジオの生産は奨励された。ドイツではラジオ産業のレベルが高かったために、ラジオの生産は強い制限を受けた。技術レベルの低い国民受信機は生産が許可されたと思われる。当館には、戦後作られたと思われる国民受信機が収蔵されている。

Siemens kleinampfanger 1945年頃 (所蔵No.11457)

  
Deutsher kleinampfangerではなく、メーカ名をつけてSiemens kleinampfanger となっている。D.K.E.1938の型番はなくなっている。また、キャビネットからはナチスの紋章と認定章が削除されている。スピーカは終戦前に作られたもののようで、ナチスの紋章が入った認定章がインクで消されている。

回路は整流管がなく、セレン整流器が使われている。裏蓋の表記は2球式のままであるが、改造かどうかは不明である。ツマミとネットははD.K.E.1938型のものではなく、VE 301用が使われている。残った部品をかき集めて作ったのだろう。

ドイツでは、戦後、中波帯の使用が厳しく制限されたためにFM放送が1949年から実施された。このこともあって、日本のように戦前の技術を引きずったストレート受信機が使われ続けることはなかった。放送の統制を目的とした低性能の国民受信機の呪縛は戦後復興と民主化により解かれることになった。

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参考文献

(1)安藤照雄(東京中央放送局) 「ドイツ国民受信機VE301W」 『ラヂオの日本』 昭和9年9月号 (日本ラヂオ協会 1934年)
(2)RADIOS Rundfunkgeschichte in Wort und Bild, Dieter Holtschmidt, 1982,
(3)Handbuch des Deutschen Rundfunkhandles 1937-38, WDRG / Wilhelm Limpert
(4)Radiomuseum.org

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