日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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終戦直後のラジオ(解説編)
1946-48


CONTENTS

占領政策とラジオ

戦後の普及型ラジオ

戦後のスーパーと全波受信機

物価の目安

ラジオ展示室

参考文献

第2展示室HOME


占領政策とラジオ

戦後、占領軍の占領政策の中で民主化のために重要視されたラジオ放送の普及のために良質なラジオの供給が命令された。また、占領軍がきわめて早い時期に出した指令が短波受信機の解禁であった(1945年9月18日)。終戦からわずか1ヶ月、進駐軍向け放送AFRSが放送開始する1週間前であった。これに答えて日本のラジオ業界では戦後すぐに生産を再開した。

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戦後の普及型ラジオ

欧米各国の標準的なラジオはスーパー受信機で、オールウェーブ受信機も珍しくなかった。しかし、当時の疲弊しきった日本でスーパー受信機を標準とすることは技術的にも経済的にも不可能であった。戦時中から継続して規格1号相当の並四受信機を製造するメーカもあった。このため普及型の受信機として高一付再生式4球受信機が選ばれた。これが国民型受信機である。

国民型受信機規格は、当初の案ではトランスレスと6.3V管に統一されていたが、実情に合わせて戦前のままの2.5V管を使ったモデルも追加された。真空管の不足から放出されたUt-6F7、MC-658-A、UY-37などが使われていることもある。特に困ったのは6.3Vの適当な小型出力管がないことであった。国民型受信機案ではUZ-42が指定されたが、これではマグネチック・スピーカには大きすぎ、高価で入手も困難だった。6ZP1が市場に出るまでは、出力管のみ2.5VのUY-47Bを使ったり、入手が容易だった電圧増幅管のUY-37やUY-76を使うこともあった。

コラム:生まれがわからない出力管 6ZP1

6ZP1はマグネチックや小型パーマネントダイナミックに最適な小型出力管として1950年代まで広く使われた標準品種である。これは国民型2号受信機用に局型用の12Z-P1を6.3V化したものだが、この品種については発売に関する広告や記事などの資料が全くない。戦時中のマツダの資料に「開発中」としてリストに載っていることから早い段階で計画はされていたのだろう。

いつの間にか登場した6ZP1は、1946(昭和21)年の後半にはずっと前から存在したように普通に使われている。戦時中からある品種のヒータ電圧を変更しただけの品種なので、当時の用紙不足で薄くなっていたラジオ雑誌で取り上げられることもなかったのだろう。実機から判断すると、6ZP1が市場に出たのは1946年の第一四半期と思われる。戦後の混乱期を象徴するような品種と言えよう。

ラジオ業界では最大手の松下が財閥指定により活動に制限を受ける中、既存のメーカーだけでなく、多くの中小メーカーが乱立した。また、軍需生産を止められた電機、通信機などの大企業、自動車、精密機器などの異業種からも生き残りをかけて参入してきた。異業種から参入したメーカのセットにはデザインや構造がユニークなものも多い。松下や早川などの戦前からの大手に比べると、大企業であっても新規参入組の生産規模ははるかに小さかった。このため、三菱や沖、日立などの大企業は、スーパーやダイナミック付国民型受信機などの高級機に絞った商品構成となっていることが多い。

国民型受信機は、放送協会認定を受けたものについて免税措置が受けられることになり、大半の国民型受信機が1946年後半から再開された認定を受けることになった。しかし、実際には認定制度が復活するまでのわずかな期間だけ生産されたために認定機器の記録にないセットや、認定が下りる前に生産された認定マークがないモデルもしくは、放送協会認定制度と逓信省型式試験の間の空白期に製造された製品が存在する。

また、一部の中小メーカは、認定制度復活前に生産していることが確認されていながら認定の記録に名前がないにもかかわらず、逓信省型式試験を受けているものがある。認定制度の時代にも生産を継続していたことを示している。免税のメリットはあったものの義務ではなかった認定を受けなかった国民型受信機も多かったと思われる。

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戦後のスーパーと全波受信機

戦後、占領軍がきわめて早い時期に出した指令が短波受信機の解禁であった(1945年9月18日)。終戦からわずか1ヶ月、進駐軍向け放送AFRSが放送開始する1週間前であった。このため、1946年春頃には多くのスーパー受信機、オールウェーブ受信機(全波受信機といった)が発表された。

日本通信機械工業会(CEMA)は、国民型受信機だけでなく、高級受信機についても規格化を検討し、1946年5月に全波受信機の暫定規格案を発表した。全波受信機は全波1号、2号A、Bの3種類に分けられ、1号は高周波増幅のない6-18Mcの短波帯を有する5球程度のセットである。2号は高周波増幅を持ち、4-22Mcの短波帯を有する7-8球程度の高級型である。A、Bの違いは感度で、A型が高感度型である。詳細な回路や構造などは規定されず、性能のみが規定された規格であった。(1)この規格は1947年頃に改定され、感度階級をがA,B,Cの3つに分類し直され、従来のBはC、AはBに相当する。実際にはA級に相当するセットは家庭用受信機としてはほとんど作られなかった。呼称は、型式と感度階級を組み合わせて1号C級のように呼んだ。(4)

1947年9月16日、スーパー受信機の普及を目指して日本通信機械工業会(CEMA)では、国民型受信機規格の上位規格として、超ヘテロダイン級国民型受信機規格を決定し、発表した。これにより標準型中波5球スーパーの技術基準が確立した(2)。ただし、国民型受信機のように専用の型式名は決められず、認定の対象とならなかった。この規格が作られたことにより、従来の再生式の国民型受信機は「普通級国民型受信機」と呼ばれることになった。1947年11月13日に日本通信機械工業会は解散し、このスーパー受信機の規格は、広く普及することはなかったと思われる。

多くの高級受信機が発表されたが、実際には高価すぎてすぐに普及することはなかった。国民型受信機が各社から発表される中で1948年になると中波のみの比較的安価なスーパーラジオが発表されるようになる。ラジオ業界では最大手の松下が財閥指定により活動に制限を受ける中、既存のメーカーだけでなく、多くの中小メーカーが乱立した。また、軍需生産を止められた電機、通信機などの大企業、自動車、精密機器などの異業種からも生き残りをかけて参入してきた。

メーカー品の高級受信機や電蓄は高額な物品税のため高価であった。このため、アマチュアが放出された軍用の部品や手製の部品を組み合わせてラジオを組み立て、また、老朽化したセットを再生した。多くは自家用か、小遣い稼ぎ程度であったが、一部の技術と商才に恵まれたものは会社を設立し、現在、大メーカー、量販店に成長したものも多い。

この時代のスーパー受信機は部品が不足し、標準的な回路が確立していない中、きわめてユニークな回路構成、構造の受信機が多く見られ、興味深い。主なものとして国民型受信機用に量産されていた6C6と6D6を多用したものや、放出品として出回っていた6F7、6L7Gなどを使用したものなどが挙げられる。

1948年には、新型真空管6WC5および6ZDH3Aが開発され、6WC5-6D6-6ZDH3A-42-80 ( または6Z-P1-12F)という、5球スーパーの標準的なラインナップが確立し、ユニークな構成は少なくなる。また、パーマネント・ダイナミック・スピーカが量産されるようになり、出力部と電源を6ZP1-12Fとした普及型のスーパーが登場する。これらのセットは、先述のスーパー級国民型受信規格に沿った形で設計された(3)

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物価の目安

1946年(昭和21年)頃
小学校教員の初任給400円
鉛筆1本50銭、電球(60W)1個7.65円 (統制価格)
もりそばは統制により休業

1948年(昭和23年)頃
小学校教員の初任給2,000円
鉛筆1本5円、電球(60W)1個21.25円 (統制価格)
もりそばは統制により休業

この時代は悪性インフレにより急激に物価が上昇している。

対ドルレート(1945年9月) 1ドル= 15円(戦後再開直後のレート)
対ドルレート(1947年3月) 1ドル= 50円(軍用交換相場)
対ドルレート(1948年7月) 1ドル=270円(軍用交換相場)

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ラジオ展示室

(以下は別ファイルです)

終戦直後のスーパー受信機展示室

終戦直後の普及型受信機展示室

国民型受信機

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参考文献

(1)『電気工学年報』 昭和21年度版 ((社)電気学会 1948年)
(2)『電波科学』 1948年1月号 (日本放送出版協会 1948年)
(3)『電波科学』 1948年6月号 (日本放送出版協会 1948年)
(4)『全波受信機工学講義録』 ((社)日本電波協会 1948年)
(5)『沖電気100年のあゆみ』 (沖電気工業(株) 1981年)


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