日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

ホームお問い合わせ | リンク集 | 図書案内 | 博物館(松本)案内活動方針ENGLISH |


ゾルゲ事件で使われた無線機

1933-41


目次

はじめに

無線機の条件

受信機の概要

受信機の復元

送信機の概要r

送信機の復元

復元機の運用

おわりに

参考文献

第1展示室HOME 第2展示室HOME


はじめに

ゾルゲ事件は昭和8年、(1933)ドイツの新聞特派員を名乗って東京に潜入したリヒアルト・ゾルゲ(1895-1944)により組織されたスパイ団によって収集された機密情報がソ連に送られた事件である。この組織は昭和16(1941)年10月18日に摘発されたが、関係者に日本政府中枢に近い人物が含まれていたこと、独ソ戦の推移に大きな影響を与えたところから20世紀の歴史上重要な事件である。

収集された情報を本国に送るには、主に短波送受信機による暗号通信が使われた。暗号はサイファー式の文字列を数字に置き換えるものである。キーとなる暗号書(この事件の場合はドイツ統計年鑑のページ)が特定されない限り解読される可能性は低い。

当館では参考文献(1),(2)により、当時使用された無線機を復元した。本稿では無線機の復元を通して無線を担当した技術者マックス・クラウゼン(1899-1979)の視点でこの無線機について述べることにする。

TOP


無線機の条件

当時は現在よりもはるかに雑音や放送電波が少なく、簡単な自励式送信機と0-V-1程度の受信機で外国と交信できたことがアマチュア無線の交信結果などからわかる(5)。この事は現在より電波の発信が発見されやすいということでもある。クラウゼンが東京の前に活動していた中国ではアマチュア無線が許可されていたためにアンテナや無線機も比較的おおっぴらに設置できたが、日本では少数ながら許可されていた(4)アマチュア無線を除き一般人の短波受信機の所持は禁止されていたので、短波送受信機を持っているだけでスパイとみなされる状況であった。当然外交官でもない外国人に許可されるわけはなかった。

従ってこの無線機は秘匿に便利で、かつ発信場所を毎回変えられるように小型、軽量に作られなければならなかった。実際には分解した送受信機を黒い皮鞄(医師の往診鞄のようなものか)に収めて持ち運び、現地で組み立てて運用された。保管するときはこの鞄を納戸のトランクの衣類の下に隠したという。また、部品の購入から足がつかないように日本国内で容易に入手できる部品を使う必要があった。クラウゼンの表向きの職業であった複写機製造販売業は資材の購入などには便利だったと思われるが、クラウゼンは自分が無線やラジオの知識を持っていることを隠すほど慎重だったという(2)。

TOP


受信機の概要

受信機はシャープ製の3球受信機(真空管の配列は24B-47B-12F)のキャビネットとスピーカを取り外し、短波用のコイルに交換し、レシーバを付けたものである(写真1)。この種のいわゆる”0-V-1”オートダイン受信機はアマチュアSWLの入門用として広く使われ、当時の雑誌などにもよく紹介されている(6,7,8)。

3球受信機は4極管検波、5極管増幅で、抵抗結合となっていることが特徴である。この形式の受信機は当時一般的だったトランス結合、3極管2段増幅の並4球よりも低周波出力は小さいものの小型、軽量という特長がある。この特徴は運搬に適している。音が小さい点はレシーバを使うため問題にならない。3球受信機は音量が小さいことから都会向きとされ、少数派であったが、当時のシャープ(早川金属工業)の広告(10)を見ると3球式が5種類もあり、特異なラインナップとなっている。改造のベースにシャープの受信機が選ばれたのもうなずけるところである。

受信機、および部品は銀座のマツダランプ売店(現存するライオンビヤホールの隣にあった)等で購入され、すべて国産品である。ちなみに、マツダランプ売店は、ゾルゲのオフィスのあった電通ビルのすぐ近くである。

受信機は携帯したため消耗が激しく、壊れるたびに作り直したために検挙されるまでに4台製作したという(1)。受信周波数範囲は4.7-9Mcで、鑑定における性能試験の結果によれば新京からの5.16Mc、500Wの電波を明瞭に受信したという(2)。

最近、写真1に残された受信機と全く同じシャーシを使ったラジオを入手できたので、改造前後を比較してどのように改造したか検討してみたい。なお、この実物は徳島県向けのPB商品のため、実際に改造された東京で販売されたものとは外観が異なっていると思われるが、シャーシは全く同じものである。改造の手順としてはまずキャビネットとスピーカを削除する。そして、スナップスイッチが使われている電源スイッチを中継スイッチに交換していることがわかる。外観と電源についての改造はこれだけである。

このシャーシが非常に小さく、薄いことがわかる。電源トランスが当時はまだケース入りの縦形のものが多いが、これは伏せ型になっていてコイルと真空管を取り外すとほぼフラットな形状になり、運搬時に便利だったと思われる。

次にラジオそのものの改造だが、まず写真からわかる改造個所はフォーンジャックの追加(Bがかかるため絶縁してある)である。外したスピーカの代わりにレシーバが使われているが、シャーシ正面にフォーンジャックが追加されていることがわかる。改造前のシャーシには、パイロットランプの光を出すための穴があけられていることがわかる。フォーンジャックがちょうどぴったり合うサイズである。ランプを取り去ってここにフォーンジャックを付けたのだろう。邪魔になる24Bのシールドキャップは削除されている。

次にコイルの改造である。短波受信機に改造するためにアンテナコイルをプラグイン型の巻き数の少ないものに交換している。巻き線は絹巻き線を密巻きとしているようである。コイルはプラグイン式であるが、この受信機はバンドを切り替える必要はない。この形にしたのは運搬時に小形にし、コイルの破損を防ぐためと思われる。短いアンテナ線はコイルの”G”端子に直接付いている。短波用の巻き数の少ないコイルの場合1次コイルを持たない構造とすることは多く、珍しいものではない。

右の同調バリコンはロータの枚数を減らして容量を変えている。左の再生豆コンはそのままの位置に付けられているが、短波の再生式受信機では中波のような容量再生で広いバンドで安定に動作しないため、スクリーン繰り度の電圧を調整することで再生調整を行う回路が良く使われる(図2)。図2の回路図では豆コンをアンテナカプラとして使っているが、受信機の改造後の写真(写真1)ではアンテナ線が直接アンテナコイルに接続されていている。このため、豆コンはアンテナカプラにはなっていないことがわかる。

改造のベースとなったシャープ3球受信機

(徳島ラヂオ普及会特選A型受信機) (株)早川金属工業研究所 1936年頃

  
 
(所蔵No.m11059) 戸井田コレクション

  
 3球交流式受信機の標準的な回路図 (Fig. 1)   クラウゼンが改造したオリジナルの受信機 (photo 1)
 Typical schematic of 3 tube reciever (13)      Original photo of modified reciever (15)

 
                短波に改造した3球式受信機 (Fig. 2) (6)
                Example schematic of modified short wave reciever

次に回路について検討する。中波の標準的な回路図(図1)と短波に改造した回路例(図2)を示す。鑑定書(2)には受信機の回路図は掲載されていないが、部品に関する記述がある。
これによると使用している炭素型固定抵抗、コンデンサは次の通りである(いずれも早川製)。
 50kΩ 検波B回路のシリーズ抵抗
 250kΩ 24Bのプレート抵抗
 500kΩ 47Bグリッドリーク
 0.005μF (マイカ)  24Bグリッドコンデンサ
 0.005μF (ペーパー)カップリング
 0.001μF (ペーパー)スピーカデカップリング
 6μF(2-2-1-1μFブロック) 電源平滑、デカップリング
部品の用途は著者が推定したものだが、ほぼ元の回路の定数のようである。
しかし、ここには24Bのスクリーン、47Bのバイアス回路の抵抗が見当たらないが、この部分の定数が性能を左右する重要な部分である。オートダイン式で短波を受信する場合は再生調整を中波で一般的なミゼットバリコン(豆コン)を使う容量再生で行うと同調がずれるために(図2)のように可変抵抗器でスクリーン電圧を調整するのが一般的である。可変抵抗器は見当たらず、当時の部品のサイズではシャーシ内に収めることは難しいため、実験して固定抵抗器としたのだろう。それにしても極秘の鑑定書から、改造の肝となる部分の記述が抜けているのはなぜなのだろうか。閲覧した関係者がまねをして作ると困るということかもしれない。

写真にみえるレシーバは鑑定書によると沢藤製作所製SF333型である。ドイツ・テレフンケンのEH333型を独自に国産化したもので、このタイプのレシーバは軍用(テ式受話器)や通信用として多くのメーカで国産化(要はコピー)され、広く使われていた。鉱石ラジオやポータブルラジオでも使われたため、一般人でも入手は可能であった。

TOP


受信機の復元

  
       復元した短波受信機(左) と、輸送時に分解した状態(右) (photo 2,3) (所蔵No.11537)
Reconstructed reciever
この写真ではオリジナルと違う澤藤SF24型レシーバを組み合わせている

復元の概要

受信機の復元には実物と同じシャープの3球受信機が入手できれば良いのだが、3球受信機は数が少なく、入手困難なため同時代のレイアウトやサイズが似ている受信機の残骸を活用し、当時行われた改造を再現するためにまず3球の中波受信機を製作し、これを短波受信機に改造する方法を取った。ベースに使用したのは昭和14(1939)年頃のナショナル国民5号型高周波1段受信機(58-57-47B-12F)である。このシャーシを分解し、不要となるダイヤル、2連バリコン、コイル、高周波段のソケットなどを削除し、3球受信機と共通の低周波段、整流回路はオリジナルを残して3球再生式受信機を製作した。できる限り当時の部品を使用し、劣化したコンデンサは中身を取り出し、オリジナルのケースに新しい素子を収めて封止して再生した。バリコンは当時行われたローターを引き抜いて容量を変えることはせず、60年代のアルプス電気製の140pFの物を流用した。コイルは60年代のものと思われるUY型プラグイン・コイル・ボビンを使用して製作した。巻線については絹巻線が入手できなかったためエナメル線を使用した。真空管は程度の良い24B, 47Bがなかったので代替品の57S, 3YP1を使用した。

動作確認結果

中波受信機は容易に組み立てられ、東京都内で短いアンテナでも十分な感度が得られた。しかし、短波コイルに交換すると再生が十分にかからず、再生コイルの巻き数、位置を調整し、検波管のスクリーン電圧をボリュームで可変できるようにして最良位置を探し、固定抵抗に置き換えた。豆コンは再生コイルのカップリングコンデンサとして元の位置に残した。このような調整により大電力の短波放送を受信することができたが、鉄骨建築の中では屋外アンテナとアースを使用しないと全く実用にならなかった。これは当時の鑑定の過程で行われた実験で、鉄筋の建物内では使用できなかったという記述と一致する。当時、実際の送受信には都内数箇所の木造家屋の2階が使われ、アンテナは1mの電線のみだったという(1),(,2)。

考察

復元してわかることは、十分な感度を得るまでにかなりのカット・アンド・トライが必要で、かつ動作が不安定であり、バリコンに減速機構などもないため同調には微妙な操作が必要だが、同調特性はかなりブロードなため、受信機の不安定な部分は相殺されるといってよい。同調がブロードなため、豆コンによる容量再生調整もある程度は実用になった。受信機が最後に改造された昭和13(1938)年には検波には4極管のUY-24Bに代わって5極管のUZ-57が使われるようになっていたが、このように受信機の改造に経験が必要なことから、あえて新しい部品を避け、実績のある回路を使い続けたものと思われる。

TOP


送信機の概要
Charactaristics of Transmitter

  
アームストロング式送信機の回路図 (Fig. 3)(2)             オリジナルの送信機の写真(photo 4)(1)
Schematic of transmmiter (Left)   original photo of transmitter (right)

送信機については鮮明な写真がなく、(写真4)に示す不鮮明な写真(1)と鑑定書の記述からその内容について検討する。クラウゼンが送信した相手方はウラジオストックまたはハバロフスクといわれているが、このためには1000km以上の到達距離を実現する必要がある。クラウゼンは大陸で活動していた頃からほぼ同じ回路図で送信機を製作している(2)。3種類残されている回路図は細部が微妙に異なるが、基本的に方式は同じで小型送信管UX210を2個直列にしたハートレー回路を基本にしたアームストロング式である。この回路は当時日本で超短波治療器にほとんど同じ回路が使用されており(11)、簡単な割に信頼性は高かったと思われる。調書によればクラウゼンはアメリカARRLのアマチュア・ラジオ・ハンドブックを参考にしたと証言している。この回路は発振管が整流管を兼ねるもので、B回路を直接キーイングすることでハム音を変調したA2電波を発生する。

このような自励発信式は不安定で、1930年代にはアマチュア無線でも使われなくなっていたが、クラウゼンが教育を受けた時点では一般的であった。旧式ではあったが簡単で小型にできるというメリットがあり、携帯性を実現しなければならないスパイ用無線機には適していた。

実際の運用では中華民国で非公式に用いられたコールサイン”AC”を使い、相手方はこれも中華民国に割り当てられた”XU”(中国の正式なコールは”XG”)、7MHz帯のアマチュア・バンドの近くの周波数を使い、暗号部分以外はQ符号を多用するなどしてアマチュアの交信に偽装していた。鑑定書によればアンテナは発見されないように室内に張られた6mの裸線で、2階で使用したためアースはアンテナと同じ長さのカウンター・ポイズであった。この低いアンテナ利得を補うためにUX210の規格425Vの倍以上のAC800VのB電圧をかけて無理矢理送信出力20-24W(空中線電力15-20W)を絞り出すという危険な代物で、真空管がもたないため連続で送信できたのは30分以内という。また、この送信機の絶縁はベークライトパネルに頼り、シャーシ上のほとんどすべての金属にAC800VのB電圧がかかっているという非常に危険なものである。

送信機の製作には受信機と異なり特殊な部品が多く、クラウゼンは入手の困難さを予想して電鍵(外国製)とRCA製の送信管は上海から来日するときに携帯してきたが、UX210はこれも小型送信管であるUY-807等と同様拡声器用としても使われたので国内での入手も可能であった。鑑定書によると真空管のソケットはアメリカ製のもの、バリコンは大型(写真中央)が七欧製7枚物、中型(同左)が早川製9枚物となっているが、形状から送信用ではなく、旧式な受信用バリコンと思われる。プレート/グリッドコイルは当時アマチュアが一般的に行ったように銅のガソリンパイプを加工して製作された。電源フィルタ用チョークコイルも手製である。

写真には大型のトランスが写っているが、これは野路製作所製RT-182B型で、2次400V130mAセンタータップ付き、7.5V 7A(2.5Vタップ付き)という仕様である。野路製作所の資料は発見できなかったが、同時代の日本無線などの資料(10)を見ると、これに近い仕様のトランスは45p-pなどの大型電蓄、拡声器用として製造されていた。両波整流用のセンタータップ付き巻線の両端を使うことで800VのB電圧を得ている。また、7.5Vのフィラメント電圧は一般的でなく、2.5Vと5Vの巻き線をつなぎ、途中のタップにバイアスをかけたものと思われる。トランスはかなり重いため携帯せず、送信場所にあらかじめ設置してあったという。捜索では2個押収されている。

捜索では無線機に関係ないコンデンサなどの押収されている。クラウゼンはレコードを聴くために電蓄を所有していた。トランスやコンデンサ、真空管などの部品を購入しても電蓄の修理用としてなら不自然ではない。擬装用というわけではなかっただろうが、電蓄の所有は偽装の役に立ったといえる。

TOP


送信機の復元

  
復元した送信機 (photo 5) と分解した状態 (photo 6)  (所蔵No.31001)

復元にあたっては(写真3)から特定できる部品のサイズを元に全体の大きさを割り出し、「菊版書籍大の木箱にベークライト板を付し、」(2)という鑑定書の記述から13mm厚の杉板で枠を作った。表面処理については記述がないが、実用本位ということで無塗装とした。鑑定書には木箱とベーク板が分離できるという記述があるため、パネルは箱のふちに載せるだけとした。ベークライト板の厚みは、その強度と、当時の材料の規格からニ分厚=5.08mmとした。

この無線機は運用するとき以外は分解されて保管、運搬されたが、どの程度まで分解したかを供述調書の記述を元に推定した。コイル、バリコン、真空管を外すとほぼフラットになる。ここまで分解したものと推定して構造を検討する。コイルの取り付けは普通のアマチュア機などではタイト製のスタンドオフ端子などに取り付けるが、この場合は外せるようにするためにコイルの先端にチップ端子をはんだ付けし、シャーシ側にラジオのスピーカなどの接続に使う端子板を付けて差し込むだけで取り付けられるようにした。バリコンは1929年頃の国産の大型バリコンを使用したが、この時代のバリコンにはネジ式のターミナルが付いているためこれにシャーシ上に出した線を締め付けるだけとし、本体は固定しなかった。アンテナ線の接続はワニ口クリップでコイルに接続するものとした。トランスや電鍵などの配線をどのように接続したかは推測するしかなかったが、鑑定書にトランスからのリード線について「チップ付きリードワイヤ」という記述があることから配線側はバナナチップ、シャーシ側は陸軍型端子、ラジオ用3連チップ端子板を使用したものとした。

配線は当時の一般的な方法に従い、外部の接続用にはプッシュバックワイヤ、シャーシ内には錫めっき銅線にワニスチューブをかぶせたものを使用した。コイルは当時行われた方法通り、銅パイプを焼鈍して柔らかくし、これをビールの小瓶に巻き付けて製作した。電源のチョークコイルも手作りだったと思われるが、手持ちのアマチュア無線用の高周波チョークを流用した。

真空管はオリジナルどおりのRCA製UX-210を使用した。ソケットは当時の米アンフェノール社製のタイト型を使用した。固定コンデンサはすべてマイカで、鑑定書では高梨、辻本、日本無線および米国製が18個押収されたという。必要な個数よりもかなり多いが、これは送信機に高圧の交流をかけているため破損することが多く、スペアを常に用意していたためだという。復元機では同時代のマイカコンデンサを使用し、直列にして耐圧を稼いだと思われる部分は1個で代用した。固定抵抗器10kΩはオリジナルは錦水堂(LUX)製の巻き線型5kΩ2個を直列にしているが、復元機では松下のL型炭素皮膜抵抗器10kΩ2W型を1個使用した。

電源トランスは、オリジナルと同じ電圧をかけることは危険なので、あえてオリジナルより小さい42シングル80整流用のトランスを使い、BとしてAC350Vをかけるものとした。フィラメントは6.3V巻き線を使用し、1次側のタップを90V端子につなぐことでほぼ規定通りの電圧を得た。ただし、復元機の写真にはオリジナル通りのものを置いている。

電鍵はオリジナルとほぼ同サイズのものを入手し、料理用に市販されている持ち手が付いた「羽子板」状の板に取り付けた。

TOP


復元機の運用

現在の法規ではA2電波の送信は許されていない。このスプリアスの大きな送信機の実験にはシールドルームを使うべきだが、今回は鉄骨建築の室内で、アンテナをオリジナルの6mから0.5mに短縮し、別のHF送信機で室外への漏洩がないことを確認した上で復元した送信機を動作させた。送信機の真空管は、新品のUX-210を用意できなかったため、試験用に同等品、シルバニアの10Y(VT-25)の新品を使用した。

電源を接続し、オシロのプローブをアンテナに結合させてキーイングしながら波形が最大になるようにバリコンを調整した。実際には受信機でモニターしながら調整したと思われる。同じ室内に置いた短波受信機でモニターしたところ、50Hzの交流信号で変調されたA2のトーンが受信できた。アンテナを極端に短くしたため本来の基本波である7MHzよりも21MHzのほうがシグナルが大きいという結果になった。現在7MHz帯は放送やアマチュア無線などで混雑していてこの無線機の弱いシグナルを発見するのは困難であった。復元機での実験は室内での送受信にとどめたが、鑑定で行われた当時の実験では、夜間、満州新京無線局のRCA 10T型受信機(当時のRCA製ラジオの中で家庭用の最上級機である)で受信できたという。

調書によれば送信機の組立に約10分、通信を10分以内に確立し、暗号化された電文250-800語を真空管が持つ限度の15-20分以内に送信し、5分以内に撤収したという。これを毎回場所を変えて月に3回程度行っていた。組立、分解はこの記録程度の時間で可能なことが今回の復元機を扱ってみてわかった(分解した状態を写真3,6に示す)。分解して部品を送信機の箱に収めるようにすれば、現代で言えばデパートの紙製手提げ袋に入る程度の大きさになり、トランスを除けば重量も軽く、かばんに入れて運んだという供述どおりであることが確認された。この不安定な機材で官憲の目を逃れながらこれだけの短時間で通信するというのは大変なことであったといえる。

TOP


おわりに

ゾルゲの諜報団は1941年に摘発され、ゾルゲは日本側主要メンバーである尾崎秀実とともに死刑判決を受け、1944年に処刑された。通信技師、マックス・クラウゼンは、逮捕当時諜報活動に対する熱意を失っていたこともあって死刑をまぬかれ、戦後釈放された。その後進駐軍(アメリカ当局)の追及を逃れてソ連に脱出。東ドイツに移住して1979年に病没した。他の諜報団メンバーは刑死もしくは獄死し、戦後まで生き延びたのはクラウゼンと、伝書使を勤めて逮捕された彼の妻、アンナ・クラウゼンのみである。この事件の短波通信については、日本側では、「怪電波」を捉えてはいたが探知することはできなかったというのが定説である。諜報団の逮捕は、日本人メンバーの逮捕がきっかけとなったとされる。しかし、特殊な特務機関の防諜網によって補足されていたとする文献(18)もある。

本稿は、電気学会電気技術史研究会で発表した研究報告HEE-99-19「ゾルゲ事件で使用された無線機の復元」を再構成したものである。ここでは多くの研究があるゾルゲ事件の政治的側面から離れ、一無線技術者の立場から無線機の復元を通して技術的側面を検討した。現代は衛星通信が普及し、モールス符号による短波通信はその役目を終えようとしているが、つい最近までゾルゲ事件で使われたのと変わらない数字の列を短波で送る暗号電信が諜報活動で使われていた(14)。無線技術の発達、ラジオ放送の普及は社会、経済一般にさまざまな変化をもたらしたが、軍事、諜報活動にもその力を発揮することになった。諜報活動に使われる無線機器はその性質上実態が伝えられることは少ない。その活動の是非はともかく、無線の一つの用途として記録に残す必要があると思う。

TOP


参考文献

(1) 小尾俊人編 『現代史資料(1)』 (みすず書房 1962年) Amazon.co.jpで購入する
(2) 小尾俊人編 『現代史資料(3)』 (みすず書房 1962年) Amazon.co.jpで購入する
(3) 坂田正次 「通信の分野から見たゾルゲ事件」 『電気学会電機技術史研究会研究会資料』 HEE-97-17
(4) JARL編 『アマチュア無線の歩み』 (CQ出版社 1976年)
(5) 岡本次雄、木賀忠雄 『日本アマチュア無線外史』 (CQ出版社 1991年)
(6) 「標準ラジオ回路集」 『無線と実験』昭和11年1月号付録 (誠文堂新光社 1936年)
(7) 「短波受信機配線図集」 『初歩のラジオ』昭和25年1月号付録 (誠文堂新光社 1950年)
(8)『101 Short Wave Hookups Radio & Television 1940』
(9)『伊藤ラヂオ卸商報』 1936年6月号 (伊藤ラヂオ商会 1936年)
(10)『水野卸商報』1937年9月号 (水野武商店 1937年)
(11) 内田 孝 「アンティックラジオ観察日記その15」 『AWC会報』 No.3  (アンティック・ワイヤレス・クラブ 1998年)
(12) 日本ラヂオ通信学校編 『ラヂオ受信機組立知識(下)』 (日本ラヂオ通信学校出版部 1933年)
(13)『改訂ラジオ技術教科書』 (日本放送出版協会 1941年)
(14) 諜報事件研究会編 『戦後のスパイ事件』 (東京法令出版 1990年)
(15)『日録20世紀 1941年』 (講談社 1997年)
(16) 石井花子 『人間ゾルゲ』 (徳間書店 1986年) Amazon.co.jpで購入する
(17) ロバート・ワインマント著 西木正明訳 『ゾルゲ 引き裂かれたスパイ』(上下) (新潮文庫 1996年) Amazon.co.jpで購入する 
(18) 斉藤充功(さいとう みつのり) 『幻の特務機関「ヤマ」』 (新潮新書 2003年) Amazon.co.jpで購入する
(19) 映画『スパイ・ゾルゲ』 (東宝 2003年)

(19) 映画監督、篠田正浩氏が最後の作品として2003年にゾルゲ事件をテーマに長編映画を製作した。きわめて正確な時代考証を目指したこの作品の製作には、この復元の報告や資料も参考にされている。映画の中で流されているゾルゲ側のモールス信号の音声は、ハムを変調したA2電波の音声を忠実に再現したものである。作品中で通信のディテールはきわめて正確かつ克明に描かれている。無線機の運用については、この作品を見ればよく理解できるものと思う。時代背景やディテールを細かく描いているために3時間もの長尺となり、娯楽作品として気楽に楽しめる作品にはなっていないが、ゾルゲ事件の流れを理解するには良い作品である。

TOP 第1展示室HOME  第2展示室HOME