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国民型受信機構想
The Planning of "Kokumingata"Radio
早すぎた国民型受信機規格の発表
国民受信機
放送局型受信機の挫折
新型ドイツ国民受信機の衝撃
DKE1938型 1938年
DKE1938スタイルの国産ラジオの登場
東芝受信機41型 東京芝浦電気(株) 1940-41年
ナショナル(National)特選受信機 松下無線(株) 1940年頃
有放第4号受信機から国民型受信機へ
真空管の整理案と国民型受信機規格
戦争末期の小型受信機
ナショナル(National) R4-M型 再生検波4球 松下無線(株) 1944年頃
ヘルメス(Hermes) S-5型 再生検波4球 大阪無線(株) 1942-43年 公36.60円
ヘルメス(Hermes) M-5型 再生検波4球 大阪無線(株) 1944年
国民型受信機から逓信省型式試験へ
参考文献
1945(昭和20)年9月、電気機械統制会が中心となって商工省、逓信院、日本放送協会、日本ラジオ受信機製造統制組合、および各メーカなど関係者が集まって戦後のラジオ受信機のあり方について協議が行われ、「無線と実験」誌1946年1月号には国民型受信機(仮称)規格が発表されている。マッカーサーの厚木到着が8月30日、降伏調印が9月2日、同日GHQ指令がはじめて出されるというスケジュールであるから、このラジオ関係者の動きは占領軍の動きに対応してというにはあまりに早すぎる。GHQがラジオの増産を指示するのは11月に入ってからである。終戦から検討し始めたものとはとても思えない。はたして「国民型受信機」とは、いったいいつから計画されたものだろうか。
本稿は、まだ確証を得たものにはなっていないが、現在得られる資料から推理してみる。そのために、まず1933(昭和8)年まで戻ってみたい。
1933年、ヒトラーが政権を握ったドイツで、統一規格の普及型受信機"Volks Empfanger" VE-301型が発売され、制度とともに日本に情報がもたらされた。日本ではこれを「国民受信機」と訳して紹介した。この受信機と生産、配給の制度は安価で高品質のラジオを普及させようとしていた日本放送協会や逓信省に大きな影響を与えた。
国民受信機が紹介された翌年の1934年、松下無線は安価な小型セットを「国民受信機」と名づけて発売した。ナチスの国民受信機と「National
Radio」にかけたものではないかと思われる。その後松下は普及型のセットに「国民受信機」の名称を使っている。また、松下は1940年頃になると、後の国民型受信機に似た「国民*号」という受信機を発売する。いずれも松下が勝手につけた名称で、公的な「国民型受信機とは関係ない。1935年から始まったドイツの国民受信機に影響を受けた放送協会の標準受信機、後の放送局型受信機の検討の中でも国民受信機という名称が使われている。
1938年1月、1936年から日本放送協会で検討されてきた「標準受信機」である「放送局型受信機」の最初の仕様書が発表された。放送局型受信機は、ドイツ国民受信機に範をとり、安価で良質な受信機の普及を目指したものであったが、戦争が本格化する前から企画、開発されていたために発表された頃には資材節約という国策に対して贅沢すぎる仕様になっていた。指定された価格も原価に対して安すぎたため、初期の放送局型受信機は失敗作に終わった。放送局型受信機は、時局に合わせてより節約型の受信機が開発されることになった。こうして放送局型受信機制度が迷走する中で、ドイツから戦時対応の資材節約型受信機がもたらされた。
ヒトラー政権下でラジオの普及のために開発された「国民受信機(Volks Empfanger)」に、1938年、より普及型の「小型受信機(Kleinampfanger) DKE1938型が追加された。初期の国民受信機VE-301型(1933年)については、技術的にはさほどの関心を呼ばなかったが、この新型受信機は、戦時下にあって資材節約を図っていた日本の技術者を大いに刺激するものであった。
DKE1938型 Roland Brandt社製 (所蔵No.11511)
VE 301Wと同じ材質のベークライトキャビネットに収められたDKE1938型は、徹底的な資材節約が図られている。回路は、4極3極管VCL11による再生検波、増幅と、整流管VY2の2球式で、紙製フレームのマグネチック・スピーカを駆動する。シャーシはベークライト板1枚で、シャーシに垂直に付けられたバリコンを回す枠がダイヤルとなっている。長波、中波の切替はバリコンを回すことで自動的に行われる。トランスレスで、電源電圧はシャーシに垂直に立てられた巻線抵抗器のタップで切り替える。正面ダイヤル上には、ナチスの鷲と鉤十時を組み合わせた紋章が表示されている。この受信機は1938年末までに70万台が生産された。
DKE1938に採用されたフレームが硬化紙製のマグネチックスピーカは国産化された。樹脂製キャビネットは作られなかったが、この受信機の構造を取り入れたラジオセットが1940年頃から各社から発表されるようになった。その初期の代表的なものが、トランスレス用の真空管を開発した東京芝浦電気から発売された「東芝受信機41型」である。
東芝受信機41型 トランスレス3球再生式受信機 東京芝浦電気(株) 1940-41年 卸28.00円
東芝が開発したトランスレス用真空管を使用した再生式受信機。12YV1-12ZP1-12XK1-B61の構成で、金属フレームのマグネチックを駆動する。半波整流管を使用しているためB電圧が低く、似た形式の放送局型122号受信機倍電圧整流、出力300mW)に対して、出力が100mWと小さい。ベークライト板2枚で構成されたシャーシは、真空管ソケットのフレームを兼ねている。
ドイツ製のように複合管を使用していないことからサイズは大きいが、配置や構造はDKE1938に酷似している。ただ、スピーカが大きいためサイズは一回り大きい。電球、真空管のトップメーカであった東芝は本格的なラジオセットの販売は行っていなかった。このセットは一般に市販されたが、東芝自身が製造したものではなく、七欧無線電気および山中電機がOEM供給したものである。本機は使用部品から山中製と思われる。商品というよりはトランスレス真空管のデモ用といったほうが良い。
本機のツマミは失われている。本来はDKE1938と良く似たデザインのものが使われていた。
本機は、整流管と安定抵抗管が失われている。
掲載誌:伊藤商報1941.6
(所蔵No.11794/11713)
最大手の松下無線からも、このスタイルのラジオが発売された。
ナショナル特選受信機 松下無線(株) 1940年頃
DKE1938のスタイルを真似たセット。回路は57-56-12A-12F の並四球である。普及していた安価な真空管を使うために小さなトランスが付けられているが、ベークライトの板にソケットを兼ねる構造や、紙製フレームのマグネチックなど、東芝受信機と共通する資材節約を図ったセットである。トランスレスの東芝受信機41型よりも、こちらのほうがオリジナルのDKE1938にサイズが近い。
本機のツマミは失われていたため、似た形のものを当館で取り付けた。
(所蔵No.11772)
1940年以降、放送局型受信機はセミトランスレスの11号、トランスレスの122号、123号が発売され、資材節約型の時局にかなった標準受信機として広く受け入れられるようになっていた。しかし、スピーカは紙製フレームのものが採用されたが、シャーシは金属製で節約は不十分なものであった。1942年には放送技術研究所で、シャーシまで硬化紙製とし、μ同調を採用したセットが試作されたが、実用化にはいたらなかった。
同時期に逓信省では電話線を利用して放送を行う「有線放送受信機」を開発していた。受信機の開発には放送技術研究所も協力し、上記の試作の知見も取り入れられて、樹脂製シャーシ、トランスレス、μ同調という仕様の「有放3号型受信機」が実用化された。 1942年にはこれをより資材節約型とした「有放4号型受信機」が試作された。このセットのデザインは東芝受信機41型などと似た「DKE1938スタイル」であった。この受信機を試作したのは、その使用部品から上記の「ナショナル特選受信機」を発売した松下無線と思われる。資材の節約は3号受信機より徹底され、シャーシはベークライトからベニヤ板に変更されていた。
有放第4号受信機制定のための試作受信機 (無線と実験1942年7月号より)
有放4号受信機を紹介する無線と実験誌1942年7月号に掲載された逓信省工務局 平野善勝氏の記事の中に注目すべき記述がある。
電話線を使うことから逓信省が許認可権を持つ有線放送受信機は当初から国民受信機のための試作と位置づけられていた。
記事の一部を引用する。
それらの受信機(注、有放1号から3号までの受信機のこと)に就いての説明の際にも記したとおり、近く所謂「国民型受信機」とも称すべきものの制定されることを報告した。即ち、国民型受信機として要求されるところは性能の優秀性は勿論、資材的にも現時局下に最も即応せるものなることが必要である。更に、これが価格に就いても可及的低廉で、よく普及の実を挙げ得るものでなくてはならぬ。斯く言うは易いが、これらの総ての要求に適応した受信機器の制定は、然く簡単に実現し得ぬところであって、これが実現に当たっては、各方面関係者の協力が必要なることは勿論である。即ち、設計者、製造者の目的達成への渾然一体の協力が絶対必要なのである。
国民型受信機制定に当っては、これが規格制定に各関係権威者により構成される委員会の如きものを作らなければならない。而して斯くの如き委員会にて制定されるべき規格の原案を決定しておく必要上、今回新型受信機の試作を行った。すなわち、有放第4号受信機として決定される国民型受信機への基礎となるべきものである。もちろん、新規制定受信機以外の一般受信機が参考に供される筈である。
このように戦時型の、資材を節約した安価な普及型受信機を「国民型受信機」として規格化しようとしていたのである。この「無線と実験」17年7月号には、同じ著者が[有線放送の頁」も書いている。ここでは、
諸資材の使用が益々窮屈となるに従い、これが打開策として更に諸資材節用の受信機を必要とし、また広範に普及せしむるためには価格の低廉なることが要求される。よって、これらの事情を考慮して、更に性能、体裁、価格等の点に於いても、可及的最高水準のものとする必要があり、所謂「国民型受信機」とも称すべきものの実現が切望されるのである。斯かる標準受信機の規格は、恐らく斯界の権威者よりなる委員会の如きものにより、制定されることになろう。斯くの如き方針により、標準受信機の決定を見られる筈であるが、これに対する検討資料を得る目的で、最近新型受信機の試作が行われた(注:有放4号受信機を指す)。
これも最初の記事とほぼ同じ内容であるが、注目すべきはこの仮称「国民型受信機」を「標準受信機」としていることである。「標準受信機」という言葉は、1939年8月7日、逓信省令第36号で放送用私設無線電話規則が改正され、受信機として「逓信大臣ニ於テ聴取無線電話用標準受信機トシテ認定シタルモノ」という項目が追加されたことにより正式に法的な根拠が与えられた用語である。そして、同日の逓信省告示第2295号で、放送局型受信機が標準受信機として認定されている。
これらの記事によると1941年頃から、逓信省では放送局型受信機に代わる国家が規格を定めた標準受信機たる国民型受信機を制定しようとしていたことがわかる。逓信省は放送局型受信機に満足していなかったのだろう。
真空管の整理案と国民型受信機規格
戦前、日本の真空管業界では新型の真空管が次々とラインナップに加えられながらも、古典的な201A、199、安価なために広く普及していた26B、27A、24Bといった、主に2.5V系の球が大量に供給されていたため、品種が膨大なものとなり、類似した品種が数多く存在することになった。
このため、東京電気では1941年7月に、下表のとおり旧品種を中心に25種の真空管を廃止した。
用途 | 構造 | 2.0V | 2.5V | 3.3V | 5V | 6.3V | 7.5V |
---|---|---|---|---|---|---|---|
検波整流用 | 双二極検波管 半波整流管 両波整流管 |
HX-82 |
HX-83 |
KX-281 |
|||
検波及び増幅 | 双二極三極管 双二極五極管 |
UZ-55 |
UZ-75 UZ-85 |
||||
検波増幅 | 三極管 四極管 五極管 バリミュー5極管 |
UX-222 UX-34 |
UY-27B UY-35B |
UX-199 (UV-199) |
UX-201A | UY-37 UZ-36 UZ-77 UZ-39 UZ-78 |
|
電力増幅 | 三極管 ビーム管 五極管 |
UX-31 |
UZ-38 UT-59 |
UX-40 UX-71A |
UZ-89 |
UX-250 |
1941年7月に廃止を発表したマツダ真空管(一般向けラジオ用)
廃止品種を見ると、201Aや199などのあまりに古いものや、30番台の旧型電池管、二桁番号の旧型6.3V管が含まれている。また、50番台の品種のように、アメリカでは使われたが、日本ではほとんど普及しなかった品種も多い。この他に、1942年末の段階で将来廃止すべき品種として、UY-24B, UX-26B, UX-32, UY-33, UY-47 が提示されている。
そして1942年末には受信管委員会による下記の受信用真空管の整理案が発表された。
用途 | 構造 | 2.0V | 2.5V | 5V | 6.3V | 12V | 24V |
---|---|---|---|---|---|---|---|
検波整流用 | 双二極検波管 半波整流管 両波整流管 |
KX-12F KX-80 KX-5Z3 |
Kt-6H6A KY-84 |
12X-K1 |
24Z-K2 |
||
検波及び増幅 | 双二極三極管 双二極五極管 |
UZ-2A6 |
UZ-75 Ut-6B7 |
12Z-DH1 |
|||
周波数変換 | 七極管 | UZ-1C6B | Ut-2A7 | Ut-6A7 | 12W-C1 | ||
周波数混合 | 七極管 | Ut-6L7G | |||||
検波増幅 | 三極管 五極管 バリミュー5極管 |
UX-30 UX-1B4 UX-167 UX-1A4 |
UY-56A UZ-57A UZ-58A |
UY-76 UZ-6C6 UZ-6D6 |
12Y-L1 12Y-R1 12Y-V1 |
||
電力増幅 | 三極管 ビーム管 五極管 |
UX-1F4 UX-169 |
UX-2A3 UZ-2A5 UY-47B |
UX-12A | UZ-6L6A UZ-42 6Z-P1(開発中) |
12Z-P1 |
受信用真空管の整理案 (受信管委員会)
これを見ると、新型のトランスレス管と、省電力型電池管が導入されているほか、6.3V管が充実していることがわかる。注目すべきは、戦後の代表表的な小型出力管である6Z-P1が、この段階ですでに開発されていたということである。戦後の国民型受信機規格の基礎となる真空管のラインナップはこの段階でほぼできていたといえる。
出典は不明だが、JA2RM、JA9IFF両氏によるアマチュア無線史に関するサイト に、戦時下の国民型受信機規格が紹介されている。
これによると、1942年12月に、国民型放送受信機規格が定められしたという。
国民型1号(省金属資源型) 12Y-V1 12Y-R1 12Z-P1 24Z-K2
” 2号 6ZV6(6D6)-6ZR6(6C6)-6ZP1-5XK1
” 3号 3YR1(57A) - 3YP1 - 5XK1
” 4号(傷病兵慰問用) 6D6-6C6-42-80(ダイナミック、ピックアップ端子付)
日本標準名称になっているため、わかりにくいが、1号、2号、4号は戦後の国民型受信規格と同じであることがわかる。3号受信機は戦後の規格ではトランスレス4球のダイナミックセットとなる。ただ、整流管5X-K1という品種は確認できない(トランスレス用の6X-K1は存在する)。これは5X-K3(12F)の誤りと思われる。これが事実であれば、国民型受信機規格の叩き台は、1942年末には出来上がっていたということになる。
戦時中の代表的なラジオは「放送局型123号」である。ただし、これは高周波1段付受信機で、比較的高級なものだった。電波の強い地域や経済力の低い家庭では、相変わらず「並四球」受信機が使われていた。多くの並四球受信機は、「代用品」として紙製フレームのスピーカを採用していたがシャーシは金属製で、せいぜいトランスやシャーシを小型化する程度の節約をしている程度だった。デザインもごく平凡な横型のものが多かった(規格1号受信機、国策型受信機の項を参照)。
これに対して、ドイツ国民型受信機DKE1938のデザインを踏襲した小型受信機が数種類発売されていた。デザインは正方形に近い小型のキャビネットの中央にスピーカを配置し、下側2個のツマミの中央に小型のダイヤルを配置するものである。シャーシは板1枚の簡単な構造で、中央に小さなトランスを置く。松下無線と大阪無線のセットを確認しているが、メーカが違っても基本的な構造が良く似ている。これが、逓信省が策定しようとしていた「国民型受信機」を念頭に置いたものであるのかどうかは不明である。ただ、試作国民型受信機とされる「有放4号受信機」と構造やデザインが類似している点や、資材節約を徹底している点など、国民型受信機との関連を想像させるセットである。
ナショナル(National) R4-M型 再生検波4球 松下無線(株) 1944年頃
松下の戦争末期の製品と思われるセット。57-56-12A-12F の4球で、紙フレームのマグネチックを駆動する。ヘルメスS-5型と、構造やデザインが似ているが、こちらはシャーシがベークライト板でできている。ソケットはシャーシと一体となっているが、これは東芝のトランスレス受信機と共通するもので、極限まで金属を節約している。
本機は、最近修理された痕跡がある。
(所蔵No.11744)
ヘルメス(Hermes) S-5型 再生検波4球 大阪無線(株) 1942-43年 公36.60円
高級受信機メーカの大阪無線が戦時中に生産した小型受信機。57-56-12A-12F の規格品の並四受信機。紙フレームのマグネチック(KDY130,大阪工業所1942.2認定、放21155)を使用。規格品の受信機である。箱型のシャーシでなく、平板を曲げた鉄板がキャビネットの枠に乗る形になっている。戦時下の受信機は局型受信機風の平凡なデザインが多い中、ユニークなデザインで資材節約型受信機を実現したところは、高級受信機でつちかった同社のセンスが生きている。
(所蔵No.11413)
ヘルメス(Hermes) M-5型 再生検波4球 大阪無線(株) 1944年
S-5型受信機をマイナーチェンジした小型受信機。57-56-12A-12F の規格品の並四受信機。紙フレームのマグネチックを使用。S-5型と同じ平板を曲げた鉄板がキャビネットの枠に乗る形になっている。デザインは平凡なものに変更され、細部が簡略化されている。戦局の悪化に伴ってラジオ生産は激減していった。このセットは戦時下のセットとしてもかなり末期のものといえる。
(所蔵No.11621)
冒頭に紹介したとおり、終戦間もない1945年9月には国民型受信機規格(仮称)が発表された。当初の規格では、使用真空管を12YV1, 12YR1, 12ZP1, 24ZK2, 6D6, 6C6, 42, 12F, B37の9品種に限定し、高周波1段のセットとするだけで、マグネチックとダイナミックのスピーカの選択、トランス付、トランスレスなどの回路構成については各メーカの自由とするかなりゆるい規格であった。
1942年には開発中だった6ZP1はこのときの規格に入っていない。まだ量産されていなかったのだろう。後に標準的に広く使われることになる6ZP1だが、発売に関するニュースが発見されていない。1946年前半までは6Z-P1を採用したセットが見当たらない。かといって消費電力が大きく高価な42を使うわけにもいかず、6D6-6C6-47B-12FやMC658A-MC658A-38A-12Fなどという苦肉の策としか言いようのないセットが市販された。6Z-P1の生産が立ち上がったのは1946年9月頃だったようである。
1946年には日本通信機械工業会(CEMA)により正式な国民型受信機規格が制定された。これは、戦時中の規格とほとんど同じ1号から4号に加えて、2.5V球を使った5,6号を追加したものだった。当初の規格案よりは細か内容となったが、構造や回路定数まで規定した放送局型受信機と異なり、真空管の配列と電源の形式、スピーカ以外の設計は各メーカに任されるものだった。
戦時中に逓信省が策定を推進した国民型受信機であったが、免税や配給の対象とされた戦後の国民型受信機は、「放送協会認定品」であることとされた。皮肉なことに、またしても標準規格の座は放送協会にさらわれてしまったのである。しかし、放送協会認定が、物品税の免税や日本通信機械工業会の(配給の)出荷検査を受ける前提条件となることに批判が集中した。
日本通信機械工業会の解散を受けてラジオを検査する機関がなくなったことからGHQ、逓信省、商工省、およびラジオ業者間の協議(放送協会が入っていないことに注目)の結果、1948年2月1日から、逓信省は、ラジオの品質があまりに低く、生産も十分でないという理由で、すべてのラジオセットは逓信省型式試験を受けることとなった。これによりラジオセットの放送協会認定を受けるものはなくなり、逓信省がラジオセットの型式認定を独占することになった。この制度は電波3法が施行される直前の1949年11月まで続いた。
大正時代の形式証明に始まって、監督官庁と放送局の間で繰り広げられた抗争?は、ここで一応の決着を見たようである。ただ、現在の電波行政でもこれに似た面子争いや電波の割り当てや規格統一にからむ利権をめぐる動きはなくなっていないようである。
なお、解散した日本通信機械工業会はその後1948年4月に、現在のJEITA(電子情報技術産業協会、旧電子機械工業会)につながる無線通信機械工業会と、有線系の通信機器メーカの団体として、通信機械工業会,
CIAJ(現情報通信ネットワーク産業協会)として改めて発足した。
『無線と実験』 昭和17年7月号 (誠文堂新光社 1942年)
『無線資料』』 第7巻第12号 (東京電気(株) 1942年)
『無線と実験』 昭和21年1月号 (誠文堂新光社 1946年)
『電気日本別冊 特集 最近のラジオ』 (オーム社 1948年9月)