日本ラジオ博物館

Japan Radio Museum

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日本のラジオの変遷と放送史の概要(戦前・戦中編)

(1925-45)


はじめに
-この章を読まれるにあたって-

ここではラジオの形態、形式の変化を大まかに紹介するとともに、関連する放送の歴史、社会的な事件などについて簡単にまとめた。代表例として取り上げたラジオの年代は、できるだけ初期のもの、または代表的なものを取り上げた。

ただし、製品のデザインや形式の切り替わりは一斉に起きたものではないことに注意が必要である。特に戦前は、地域間の経済格差やインフラの整備状況に大きな違いがあったことを忘れてはならない。都会と山間部ではデザインの好みも大きく違っていたし、(夜間のみ送電の地域を含め)電気がない地域も多かった。このため、新しい製品が発表されても実際に全国に浸透するには時間がかかり、さまざまな製品が併売されていたのが現実である。また、取り上げるトピックは東京を中心としたものにならざるを得ない。しかし、放送が開始された時期は各地で異なるため、ラジオの普及状況などは地域によって異なることもお断りしておく次第である。

詳細は、リンク先の各ファイルを参照されたい。また、リンク先に記載してあるため、参考文献は省略した。
また、ここでは日本製ラジオの歴史に限って取り上げている。したがって外国製ラジオを一緒に掲載している本文とは、年代の区切りが微妙に異なっている。特に記載がない限り、紹介したセットや部品は日本製である。

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放送のはじまり
-鉱石ラジオと電池式受信機の時代- (1925-29)

世界で始めてのラジオ放送がアメリカで開始されたのが1920年のことである。現代とそれほど変わることのない帯域と方式のAM放送である。日本でもラジオへの関心は高かった。特に1923年9月1日に発生した関東大震災後の情報途絶による混乱は、放送の必要性を広く知らしめるとこととなった。こうして世界初の放送開始から遅れること5年、1925年3月22日に(社)東京放送局(JOAK)が、東京、芝浦の仮放送所から試験放送を開始した。

この日が今日では「放送記念日」となっている。7月までには大阪(JOBK)、名古屋(JOCK)でも放送を開始、東京も芝、愛宕山の正式な放送局から本放送を開始している(6月1日)。開始時の聴取契約者はわずか5,455だったという。1年後には逓信省の指導で3つの放送局が統合され、(社)日本放送協会が設立された。

放送が始まった頃のラジオの多くは、鉱石ラジオであった。これは、電源を必要としないが、レシーバで聞くことしかできなかった。真空管式のラジオは、スピーカを鳴らすことができたが高価で、庶民が使えるものではなかった。また、真空管式ラジオの電源は電池であった。消費電力の大きな真空管を動かすのには自動車のバッテリーと同じような大型の蓄電池が必要で、保守管理に手間がかかり、費用も高かった。外国メーカのライセンスで大企業が日本製ラジオの生産を開始したが、当初は形式証明制度という規制によって国産品は低性能かつ高価なものとなり、市場はアマチュアの手作り品と輸入品に席巻された。

 
ミカサ鉱石受信機(早川金属工業研究所製) 1926年(個人蔵)

初期の鉱石受信機の代表例。メーカは現在のシャープである。探り式と呼ばれる、鉱石片に金属針を立て、感度のよいところを探る操作が必要であった。扱いにくい探り式は、後に接点を封入した固定鉱石になった。鉱石ラジオにはさまざまな形のものがあるが、この斜めパネルの形式は日本ではもっともポピュラーなものである。

 
RCAラジオラ・スーパーヘテロダイン(アメリカ製) 1924年 

 輸入された高級真空管式受信機の代表例、当時、小住宅一件分ほどの価格だったという。


当時の高級真空管式ラジオの受信システム一式 (1928年頃、ハロダイン5球式) (管理No.11825、委託展示品)

放送開始当時、真空管式ラジオで放送を聞くには、これだけの設備が必要であった。本体の他にスピーカ、2種類の大型電池(実際にはこのほかにもうひとつ、小型の乾電池が本体に内蔵されている)。本体の上に置いてある電線の束はアンテナとアースに使うもので、屋外に大きなアンテナを張る必要があった。電池の充電を自宅で行うには、このほかに充電器も必要であった。

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ラジオの交流化と普及
-エリミネータ受信機の時代- (1928-31)

一人しか使えない鉱石受信機と高価で扱いにくい電池式真空管ラジオという条件であっても放送の人気は高く、聴取者は増加したが、それに拍車をかけたのは、真空管の改良によってラジオが家庭の電灯線から電源を取れるようになったことである。初期の交流式ラジオは、電池を取り除くものという意味で「エリミネーター受信機」と呼ばれた。部品の国産化、低価格化が進み、新興の中小企業を中心とした国産品が市場の中心となる。ラジオは爆発的に普及し、1931年には聴取者が100万を突破した。松下がラジオ業界に進出したのもこの年である(この点についてはこちらを参照)

  

テレビアンA-227型4球式(1931年)と、シンガー5球式(1930年ころ)

日本製エリミネータ受信機の代表例。スピーカがラッパ型のホーン・スピーカから現代のものに近いコーン・スピーカになり、音質が改善された(安価なためホーン・スピーカも引き続き使われていた)。右の金属キャビネットは、アメリカでプレスによる大量生産、コストダウンを狙って登場し、流行したものを模倣したものだが、日本では、人件費の安さと量産技術の低さで思ったような効果が出ず、一時的な流行に終わった。

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ミゼット型ラジオの時代
-スピーカ一体型の小型受信機へ- (1932-36)

1930年代に入って部品、組み立て方法の改良によってスピーカと本体を一体にすることが可能になった。また、この頃までに各主要年に10kW程度の大電力放送局ができ、比較的低感度のラジオでも実用になるエリアが増えていた。金融恐慌後の不況の影響もあってラジオ本体も3球式の小型のものが多くなった。代表的なスタイルは、天部が丸くなった「砲弾型」のキャビネットである。古典ラジオの代表的な形として人気が高いが、このタイプが流行した時間は意外に短く、すぐに角型のキャビネットに移行した。

また、特に電波の強い都会向けに感度よりも小型でスマートなデザインを重視したセットが現れた。この時期は小型のセットが多かったこともあってこれらのラジオは「ミゼットmidget型」と呼ばれた。これはアメリカから来た用語だが、ラジオのサイズや形態が 異なるため、本来の意味とは異なった使い方となっている。 また、ミゼット型全盛期の1934年に、高品質なラジオの普及を目指して放送協会認定制度が本格的に始まったのも話題のひとつである。この頃にはラジオの大半が交流式となっていた。交流式受信機は電気がないところでは使えず、山間部へのラジオの普及の妨げとなり、また、災害時にラジオが聴けないという問題もあった。このため再び直流式受信機の普及が図られたが、成功しなかった。

   
初期のミゼット型ラジオのデザイン、左は砲弾型、中央は俗に「宮型」とも呼ばれる。
右は初期のもので、砲弾型になるまでに存在した中途半端なデザインの一つ。
キャラバンL2型3球式(左) ミカサ5球式(中) コンサートンB型4球式(右)、いずれも1931-33年頃

 
ナショナルR-48型4球式(左)と、ナショナル国民受信機1号(新K-1型)(右) ともに1934年

角ばったデザインになった後の世代のミゼット型受信機。ともにナショナルのベストセラーである。
R-48は比較的高級な高周波1段付4球、K-1は都会向けの3球再生式の小型低価格セットであった。

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並四の時代
-戦前の普及型ラジオ- (1937-39)

1934年に日本放送協会の組織が変更され、中央集権色が強い組織となり、放送内容も全国ほぼ一律となった。第二放送は主要局で行われていたが、放送局は放送協会ひとつだった。また、各地に放送局が設立され、中央局のパワーアップも行われた。このため、日本では高感度なラジオで遠距離受信を行ったり、多数の局を分離す必要はなく、高性能なラジオは必要とされなかった。また、外国の放送、特に短波放送の受信は禁止されていた。このため、オールウェーブ受信機の国内市場も存在しなかった。 このような背景の下、日本のラジオの中で主流となったのは、再生検波+三極管による低周波2段という構成のセットであった。これに電源整流用の真空管が付いて、真空管は4個となる。感度はそれほどでもないが、簡単で安価であった。このタイプの4球受信機は、業界の俗語で「並四」と呼ばれた。

この他に、低周波増幅段を5極管(ペントード)1段として3球とした「三ペン」と呼ばれるセットもあったが、真空管のコストが高く、一般的ではなかった。もう少し高級で高感度なセットとしては高周波1段増幅が付いた「高一」4球受信機が比較的数多く販売された。

デザイン的には第二放送の普及によって見やすいダイヤルが必要となり(外国製の模倣という面もあるが)、ダイヤルの窓が大きくなった。また、海外に倣って従来の縦型から横型のキャビネットに変わっていったのもこの頃である。

外観のデザインこそ海外の流行を追いかけていたが、回路は旧態依然で、海外で主流になっていたスーパーヘテロダイン方式や短波付オールウェーブセットは日本では量産されなかった。また、技術レベルの低さと高コストから、さまざまな新型真空管も民間用ラジオには使われなかった。このため、日本のラジオの技術はこれ以降停滞し、欧米との差が開いていくのである。

  
ヘルメス24M型(1937年)(左)と、長商組合B型(1937年頃)(右) ともに並四

並四受信機の代表例、このようなダイヤル窓のことを、飛行機用計器の形から「エアプレーン・ダイヤル」という。
1938年までは各社とも縦型、横型のキャビネットが混在していた。

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戦時下のラジオ
-放送局型受信機の時代- (1939-45)

日中戦争の激化に伴い、物資がひっ迫し、資材統制が厳しくなった。このため、ラジオの回路やデザインが見直され、よりシンプルなものに変わっていった。時局に対応して簡素化されたセットには、「国策」「勝利」「戦勝」など、それらしい名前が付けられたが、「国策○号」を名乗るものが多かった。これら国策型受信機の回路は並四の回路をトランス結合から抵抗結合としたもので感度を稼ぐために新型管UZ-57を検波に使用したものが多い。

  

ナショナル国策1号(KS-1)型(左)、シャープ新国策2号型 ともに並四、1939年

初期の国策型セット。ナショナルのKS-1は、その先駆けとなったもので、標準的なサイズより一回り小型の意欲的なものだったが、他のメーカが付いてこられずに後に標準外とされた。シャープのセットは標準的なサイズの典型的なもの。

メーカが自主的に国策対応のセットを発表していた頃、放送協会は、ドイツの制度に倣ってラジオの標準化を企図していた。こうして完成したのが放送局型受信機である。当初試作された1号、3号の2機種は非常時の時代に合わずに量産化されなかったが、1940年、簡素化した11号から量産が開始された。放送局型受信機は製品の仕様を放送協会が定め、認可を受けたメーカが基本的に同じ形の製品を生産し、放送協会が検査を行って配給するというものである。

1940年、東芝と放送技術研究所によるトランスレス真空管の開発によって、日本でも電源トランスを持たないラジオの生産が可能となった。東芝による試作的なセットが発売された後、1941年から放送局型122号(3球再生式)、123号(4球高一)が本格的に量産された。

1941年12月8日、日本は連合国と交戦状態に入った。太平洋戦争のはじまりである。これ以降経済統制が厳しくなってくる。123号は標準受信機とされ、戦時下の統制経済の下で広く普及した。1930年代後半からの戦争景気と、戦争関連のニュースへの関心から聴取者とラジオの生産は増加を続け、太平洋戦争が始まる1941年にピークを迎えた。

   
左から放送局型11号(1940年)、122号(1941年)、123号(1941年)

量産された放送局型(局型)受信機3種類。11号は電源トランスを持つが、122号、123号はトランスレスである。
金属の使用が多く旧式な11号と感度が低い122号は早く生産が打ち切られ、123号が終戦まで最も多く作られた。

  
  放送局型123号受信機(角型) 1944年 (左) 、 ナナオラN-10型規格1号受信機 (1943年) (右)

戦争末期を代表するラジオ。局型123号は、ベニヤ板を薄くするためにキャビネットが角型に変更された。
規格1号受信機
は、局型受信機に対抗してラジオ商組合が標準型と作ったもので、局型の製作許可が下りない中小メーカを中心に生産された。このN-10型は最も遅くまで作られたラジオのひとつである。

1944年以降戦況の悪化に伴って民需生産に割り当てられる資材は少なくなり、ラジオの生産は激減した。産業が壊滅状態になったところで1945年8月15日正午の玉音放送によって終戦を迎えるのである(実際の終戦は降伏調印した9月2日)。

国策型受信機についてはこちら

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